昔フジヤマ、今コスプレ 日本の文化をプーケットから発信! 7月26、27日パトン・ビーチ、ジャングセイロンでジャパン・フェスティバルが開かれました。 入賞者には平川副会長とジャング・セイロン社長から賞金のパネルが渡されました。 大盛況の会場 恒例の日本食販売 子ども和太鼓部の演奏 人気ロックバンド、MALE ROSE の華麗な歌と演奏 日系企業研修特集 PSUパッタニー校の学生さんがプーケットで研修しています ファリーダさん(22)、スカンヤーさん(22)、チッスワンさん(22)3人とも高校1年生から日本語を勉強しているそうですが、日本語を学びたいと思った動機は何ですか。 日本のマンガが好きで、日本に行きたかったからです。きれいな国だと思いました。 日本のドラマが好きで、特にヤマピーのファンです。とてもハンサムですね。バスケットボールの話(ブザービート)が一番気に入っています。 日本の文化、特に茶道と生け花に興味がありました。高校時代の日本語の先生が教えてくれました。 日本に留学した経験があります。昨年、お茶ノ水女子大学で6ヶ月勉強しました。日本に対していいイメージをもっていましたが、留学後もあまり変わっていません。 留学の予定は特にありませんが卒業したら旅行で行きたいと思っています。東京ディズニーランドに行きたいです。新幹線にも乗りたいですね。 私は大阪に行ってカニを食べたいです。えーっと、ほら・・・ちょきちょき、お店の前でやってる・・・・カニ道楽? はい、それです。タイのテレビでよく紹介されています。 江ノ島の有名な小さな魚・・・・しらす? しらすのアイスや貝のアイスがあるそうで、どんな味なのか試してみたいです。 私は和牛です。神戸牛がいいですね。高いけど美味しいと評判です。 卒業後は旅行関係、タイの観光客を日本に送り出すアウトバウンドの仕事がやりたいです。 私も旅行関係ですがタイに来る観光客相手のビジネスでもかまいません。 私は教師になって大学で教えたいです。タイや日本の文化、その違いなんかを教えたいです。
結婚するなら、背が高くて頭のいい人がいいですね。 ニッチャナーンくん(21、写真左から2人目)とポントーンくん(22、写真左端)は大学に入ってから日本語を勉強し始め、ポンチャイくん(21、写真左から3人目)とティアンタムくん(21、写真右端)は、高校のとき3年間日本語を学んだそうです。 ― 日本語を勉強し始めた動機は? アニメや日本料理に興味があったこと、日本の文化や季節、四季をもっと知りたいと思ったことです。タイは雨季と乾季しかありませんが日本には春夏秋冬と季節とともに自然も変化しますから、とても興味深かったです。 ― 日本語は難しいですか? ― ニッチャナーン(21)くんとティアンタム(21)くんは日本に行ったことがあるそうですが、そのときの印象は? とても熱かったので驚きました。涼しい、あるいは、寒いと思っていたのに夏でしたからタイとほとんど変わりませんでした。 ― 将来どんな仕事に就きたいですか? 観光の仕事をやりたいです。プーケットになるかバンコクか、それとも日本かわかりませんが、そのために研修に来ました。
どうかみなさん、よろしくお願いします! 恒例の忘年会が開催されました いつもラッキードローだけはつまらない、と言われて久しいですが、今年は子どもたちが大熱演してくれました。 準備クラス&小学生のクリスマスソング ピンクレディー「UFO」、おじさん達に大受けでした。 AKB48「ヘビーローテーション」 キーボードでのひき語り。 そして定番、ミスター事務局長のミニ・コンサート ステージ下にギャラリーがせり出し声援を送りました。 彼こそ、日泰の架け橋だ! ギター・コンサートを終えて・・・・ 文 西岡 史雄 今から10年ほど前のことです。プーケット補習校に通っていた仁司くんの担任だった私は年度末の成績表代わりに、こんな手紙をお父さんに出しました。「仁司くんに、しっかりした日本語を覚えさせようと思ったら、この1、2年が勝負だと思います。プーケットで勉強するだけでは限界がありますので、一定期間日本に勉強にやったらどうでしょうか」。
結局、仁司くんは留学せず、ギターと出会って熱中し、いつの頃からか補習校には来なくなりました。その後、マヒドン大学の音楽科に60倍の競争率を物ともせず合格し、様々な音楽コンクールで好成績を収め、ドイツに留学して、20歳の若さでプロとして活躍し始めました。
日本人の魂を心に秘めつつも、タイ人として生き、世界で活躍する人物がこれからも、どんどん現れることを願っています。
頑張れ、仁司くん!プーケット日本人会は、キミを・・・そして、これから社会に羽ばたいていく補習校の卒業生たちを徹底的に応援するぞ!!
コンサート会場のブルー・エレファントは、もの凄い豪邸だった。こんなロマンティックなお屋敷がプーケットにあったなんて知りませんでした。お腹ぺこぺこだったけど、大満足!
戦争を知らない子どもたちへ
終戦記念日特別企画 戦争体験者の生の声を聞く機会も、時の流れと共に、めっきり少なくなってきてしまいました。そこで、プーケット日本人会では、子どもたちに「戦争」の本当の姿を知ってもらおうと、体験者の話を聞ける場を設けることになりました。 講師 プーケット補習校スーパーバイザー・金塚英蔵氏 場所 プーケット補習校2階教室 生まれたのは台湾で、戦争が終わった小学校4年生のときまで暮らしていました。 その後、日本は中国とまた戦争になり、アメリカとも戦争になりました。一番思い出すのは空襲です。爆撃の前に偵察機が銀紙をばら撒いていきます。どうしてだか、わかりますか?こうすると、飛行機が近づいてくる音が聞こえないのです。すぐ近くに来るまで、ほとんどわかりません。 戦争になると、いい人とか、悪い人とか、関係ありません。みんな悪い人になってしまいます。相手が子どもだからといって、助けてくれたりしません。子どもでも、飛行機から機関銃で狙われて殺されてしまいます。アメリカの人たちも、家に帰れば、周りに子どもがいて、その子どもたちを殺したりはしませんが、戦争になるとやってしまいます。毎日やられます。私のクラスには50人くらい生徒がいましたが、戦争が終わって集まったら、10人もいませんでした。みんな死んでしまったのでしょう。 戦争は、テレビや映画で見るのとは、まるで迫力が違います。大きな木(手振りで直径70~80センチくらいの幅を作りながら)に機関銃の弾が当たっただけで倒れてしまうんです。防空壕のことも、よく覚えています。一度、防空壕のすぐ近くに爆弾が落ちたことがありました。生臭い空気がもの凄い勢いで中まで入ってきました。爆風です。気がつくと入り口にいた兵隊さんが何人か死んでいました。 このときだけでなく、爆弾が落ちた後は死体がごろごろ転がっています。爆弾でやられた人の死体は、みんな裸です。爆風で、服が引き裂かれてしまうのです。爆撃の後は1時間くらい火薬の臭いが残っています。 最初は日本軍も反撃して、高射砲を撃っていましたから、アメリカの飛行機も弾が届かない高さから爆弾を落としていました。だから狙った場所には、なかなか命中しません。しかし、だんだん日本軍の弾が無くなってきて、撃てなくなると、操縦士の顔が見えるほど低いところを飛ぶようになってきました。これだと爆弾を落とすのも簡単です。自分の真上で落とされた爆弾は遠くで爆発しますから安心ですが、遠くで落とされた爆弾は、すぐ近くまで来て爆発します。 特攻隊の人たちも忘れられません。うちは家が広かったので、いつも10人くらい若い兵隊さんが泊まっていました。飛行機がないから、なかなか出撃できませんが、ときどき日本から飛行機が届くと、すぐに出て行って帰ってきません。みんな大学を卒業していたようです。兵隊さんたちは、悲しそうな様子はなかったようでしたが、私のお母さんは、「また死にに行く」と悲しそうにしていました。 アメリカのようなお金持ちの国と戦争してはいけないと思いました。日本は飛行機がなくなり、「赤とんぼ」と呼ばれる練習機しかなかったのですが、低く飛んでくるアメリカの飛行機を見たら、プロペラがありません。ジェット機でした。日本とは、ずいぶん差がありました。 食べ物でも苦労しました。サツマイモはありましたが、大きいだけで(手でラグビー・ボールくらいの大きさを作りながら説明)、味がほとんどありません。糠(ぬか)饅頭って、知ってますか?お米の糠でお饅頭を作ります。うどん粉をちょっとだけ入れますが、まずかったですね。学校の先生から、「大葉を採ってこい」といわれて持って行くと、それを乾燥させ粉にして、うどん粉を混ぜてパンを作りました。真っ黒のパンで、おいしくなかったです。 台湾では、憲兵と呼ばれる兵隊がとても威張っていました。台湾人を棒で叩いたり、子どもの私の目にも、「ああ、可愛そうだなあ」と思ったものでしたが、大人はそう思わなかったのかもしれません。戦争が終わるまでは、中国の国旗を家に置くことは許されませんでしたが、台湾人の友達の家に遊びに行くと、どの家にも必ずありました。子ども心にも、「これは、誰にも言っちゃあだめだ」と思い秘密にしました。ところが日本が負けて戦争が終わると一斉にどの家でも中国の国旗を門のところに掲げています。びっくりしましたね。 戦争が終わったときは、とても恐かったです。台湾人に酷い目に合わされるのではないかと思いました。日本は、恨まれているだろうなと思ったからです。ところが、台湾の日本人は、酷い目に合いませんでした。台湾にいた日本の偉い人たちが、鉄道、道路、電気、工場などをたくさん造ったり、ある人は自分のお金を使って、畑で作物を作るために必要な水を溜めるための大きな湖を造ったりして、台湾のために一生懸命働いたからです。戦争が終わった後、新しく中国からやってきた政府が、この人の像を壊そうとしたのですが、住民たちがみんなで隠して守ってくれたそうです。私もお母さんから、いつも、「台湾の人のために働きなさい」と教えられました。そういう人が多かったのだと'思います。だから日本に帰ってこれたのでしょう。 大陸から入ってきた中国軍を見て、あまりにみすぼらしいので、みんな驚いていました。天秤棒に鍋や釜をぶら下げて、汚い身なりでやってきたのです。日本の軍隊は、とても規則正しく立派に見えましたから、ますますそう感じたのでしょう。日本が負けて、まず学校で最初に覚えさせられたのが中国の国歌です。歌詞は忘れてしまいましたが、メロディーは今でも覚えています。 大陸からやってきた人たちを外省人、もともと台湾で暮らしていた人たちを本省人と呼びますが、外省人と本省人の争いは今でも続いています。その一つが言葉の問題です。大陸から来た中国政府の人たちは北京語という言葉を話し、台湾の言葉を学校で教えることを禁止しました。ですから、お年寄りは、孫と自分の言葉で話すことができません。 戦争が終わって、一番最初に兵隊が日本に帰りました。兵隊は、武器がなくても、戦う方法を知っていますから、身を守ることができますが、最後まで残されたのは、何も知らない一般人です。みんな帰るときは、財産を全部置いていかねばなりませんでした。仲間が1人でも財産を隠し持っているのがばれたら、全員帰れなくなってしまいます。だから、みんな置いて帰りました。私は、日本は寒いだろうと、上着だけは持って帰ることができました。帰りの船の上も恐かったです。機雷といって、ちょっと触れるだけで爆発する爆弾が海にいっぱい浮かんでいたからです。 今でも台湾には、ときどきお墓参りに行きます。お父さんとお兄さんは、爆弾で死にました。お兄さんの死体は見つかりましたが、お父さんの死体は見つかりませんでした。木っ端微塵だったようです。ですから、お父さんの遺骨はありません。お父さんとお兄さんのお墓も戦争に負けて、今では大きな公園になっています。その公園では、昔の仲間たちが日本の歌を歌ってくれたりします。 そう言って、金塚先生はハーモニカを取り出すと、「ふるさと」を演奏してくれました。 兎追いし 彼の山 如何にいます 父母 志を 果たして 子どもたちが、健やかに暮らせる世の中が、いつまでも続きますように・・・。 親睦会レポート
9月17日
親睦会がパトンビーチで開かれました。出席は11名でした。
盛り上がって、腕相撲が始まり・・・・・・・
いつの間にやら相撲になって・・・
さらに2次会へ。
終了時刻は0時を大きく回ってしまいました。
着るときは、着る
バシッときまっています。
(サットリー・プーケット高校、日本語コンクールにて)
親睦会レポート
7月21日パトンビーチで親睦会が開かれました。
出席は11名。懐かしい顔ぶれが集まり、旧交を温めあっていました。
宴は終了。
ところが、事務局長が、なんと自転車で来ていたことが判明。やけにスポーティーな格好だったので 妙だとは思いましたが・・・。 (会場のパトンビーチ手前には、自動車も立ち往生するほどの山道があります)
「カトゥーの山越え?ちょろい、ちょろい」と自信満々だった事務局長だが、取材班(?)が追跡調査すると、急坂で苦しそうに自転車を押す姿が・・・。
金は使うな、体力使え!
今後の日本人会の方向性を身をもって示した事務局長の姿に感動しました。 3年ぶりの運動会で感じたこと
入場行進、選手宣誓、応援合戦等、新しいアイデアがいくつも盛り込まれ、女性ならではのきめ細かさ(スタッフは非常勤講師を除けば全部女性)が随所に感じられました。 各競技は毎年恒例のものがほとんどで、親子で盛り上がるスタイルは基本的には同じでしたが、印象的だったのは、私が補習校を離れていた2年の間に、ずいぶん新しい顔ぶれが増えていたことです。しかも、ほとんど幼児部や新一年生で、この子らが定着してくれれば、チェンマイ補習校のように60~70人規模の学校にできるかもしれません。
現在、在留邦人の中で補習校に継続的に通ってきているお子さんの比率はパーセンテージとしては少ないかもしれませんが、補習校を完全にスルーし、一度も補習校と係わり合いを持たないお子さんも、やはり少ないような気がします。子が生まれ、その子が幼稚園に上がる、あるいは小学校に上がる年齢に達しようとしたとき、どこの家庭でも、一度くらいは、「通わせてみるか」と考えることはあるでしょうし、実際に通わせる親も多いと思いますが、これまでは、一時的に生徒数が増加することはあっても、その子たちを、定着させることができませんでした。
しかし、ここで理解していただきたいのは、補習校は高い授業料を取る営利目的の学習塾ではなく、みんなの力で、やりくりしていかなければ、やっていけない「準公共」の学校だということです。
もしも、自分の望む「内容」や「環境」があるのなら、それは自分たちの力で実現しなければなりません。
幸い今のスタッフメンバーは、私が見たところ、かつてないほど強力な布陣で可能性を大いに感じさせてくれますが、それを生かすも殺すも、保護者や関係者全員のサポート次第だと思います。
今がチャンスだと思います。
「これを逃さず、一気に軌道に乗せたい」 子供たちの熱戦を見ながら、そんなことを感じました。
やったー、一等賞とったぞー。
ポツーン
「来賓席へどうぞ」と言われ座らされたその場所は、
「仲間はずれ席」だったとは・・・。
寂しそうに観戦する会長と事務局長 |