日本人会会員さん紹介



お笑いの道かプーケットか

選択を迫られ、ここでの暮らしを選んだ

 KAORIさん

ガサッ、頭の上に何か落ちてきた。ギャーー、ヤモリだった。それ以来、私はチンチョッというヤツが大の苦手である――。

 初めてプーケットに来たのは18年も前になりますが、9年間日本に帰っていて、再度ここに戻って来て昨年の10月から日本人会に入会しました。そもそもプーケットへは、ダイビング好きの従妹の付き添いで。しぶしぶやって来たという感じでした。もともとアメリカやヨーロッパの大都会の方が好きだったので、東南アジアにはまったく興味がありませんでした。最初にここに着いた時、町は汚いし、タイ料理も美味しいと思えなかったし、「私、ここゼッタイ無理~」と思いましたよ。
それがプーケットで主人と出会ったことで、9年間も住むことになるなんて。人間、どこでどう変化するかわからない。今でも不思議に思います。

 
実は日本では、女性同士でコンビを組んでお笑いをやっていたんです。
20代の頃、映画の学校に通っていて、本気で役者を目指した時期がありました。この学校の授業に漫才があり、講師に来ていた漫才師に「お笑いをやってみないか?」と言われました。最初は、私、お笑いなんてキャラじゃないし、「ゼッタイ無理~」と断りました。でも、お笑いをステップに役者になれ、と言われ、そういうものなのかなって。そして毎日のように舞台に立っているうちに、笑ってもらえることが快感になってきた。そのうちにTV出演も増え、仕事も順調に。
今、TVのレギュラー番組を持っている数々の芸人さんたちと一緒に舞台に立っていた頃を思うと、私も続けていたら…と思うこともあります。まさにこれから、という時にプーケットに来て主人と知り合い、芸の道ではなく、ここでの暮らしを選んだのです。

(←お笑い時代はこんな感じだった?)

お笑いをちょっと離れてみると、逆にいろいろなことが見えてきました。とにかく観察力がないとできない仕事だから、ここに来ても毎日いろんな発見がありました。

「花柄ピンクに赤の服…どーした?」「あのパンツの丈、ビミョーじゃない?ほら、ヒラヒラしてる」いつもこんな話題を子供たちにふって、毎日笑いにあふれていますね。

ふつうのお母さんじゃ思いつかないようなことを言うよね、とよく言われます。そして、そのたびに「あ、私、お母さんなんだ」と…。

おもしろいものや笑えるエッセンスがまわりにいっぱいあるんだから、人生、楽しく生きなきゃソン。いつもそう思っているんです。

買ったばかりの家が目の前で沈没!

「アメイジング・タイランド」な出来事とは?

 最初、パトンに住んでいたのですが、借りるより買った方がいい、ということになり、カトゥーに小さな家を買いました。その頃はまだ、ロータスもビッグシーもセントラルもなかった。だけどパトンは物価も高いし、カトゥーの方が暮らしやすいかな、と思ったから。

ところが、買って数カ月もたたないある雨の朝、ギーッ、ギーッという音で目が覚め、寝室を出てみたら、家が傾いてきて、後ろにある川の方にどんどん倒れていったんですね。慌てて主人と子供を起こし、大切なものだけ持ってとにかく外に出ると、1時間も経たないうちに家が崩れ落ちるように地面の中に沈没!

寝室のベッドの上に屋根が刺さるように落ち、下から噴水のごとく水が噴きあがってきました。私たちは大雨の中、ただ立ちすくんだまま茫然と沈んでいく家を見ていました。周りに住むタイの人たちもみんな集まって来てくれて、その後、沈んだ家から家具を外に出すのを手伝ってくれました。

何日かして、プーケット知事がお見舞いに見てくださり、新聞にも載りました。プーケットでは前代未聞の珍事だったようです。

 そもそもその土地は地盤がゆるく、家を建てられるような状態ではなかったことが、あとでわかりました。

オーナーの方が、あまりにも申しわけないと、気に入るところがあれば土地を譲ると言ってくれました。そして、2つ手前のソイを入ったところにあった今の土地をもらいました。土地は前の倍の広さ、大工さんはオーナーさんが手配してくれることになりました。家を失ったのは不幸なことですが、代わりに倍の広さの土地が手に入り、そこに気に入った家を格安で作ることができた。人生、ホントに何が起こるかわからない。

私はこの出来事を「アメイジング・タイランド」と呼んでいるんです(笑)。

ですが、私たちは家を建てて間もなく、日本に帰ることになります。私の両親が帰ってくるようにとしきりに言ってきましたし、夫も日本でビジネスを始めてみようと。私たち家族にとって大きな挑戦でした。

日本に戻ってから、主人はいつも寒い寒いと言っていましたね。雪が降れば、なぜか怒られましたし、日本での慣れない生活にイライラしていたようです。でも、実家のある横浜の鶴見にタイ料理のレストランをオープンさせ、TVに紹介される(このTV出演の際、私の昔の映像がながれ、家族ははじめて私がお笑いをやっていた事を知ります)。などしながら軌道に乗り、あっという間に日本で9年が経ちました。下の息子は日本で生まれました。

 答えは一つではない

柔軟で臨機応変なタイ人の生き方が魅力

 再びプーケットに戻ったのは、子供たちにタイに帰りたいと言われたのが理由です。

タイ人の考え方は、同じアジア人でありながら日本人とはまったく違う、と感じますね。それぞれ長所も短所もありますが、タイには臨機応変で柔軟な考え方をする人が多い。答えはひとつじゃなくて、いろんな生き方や考え方があっていい。そういうことをタイの暮らしの中で子供たちに学んで欲しい――。

そんな願いから、2012330日にプーケットに戻り、まだ途中のままの家の壁塗りなど、やり残したことを少しずつ始めてきました。

 先のことは考えない。子供たちの将来も、こうなって欲しいというのはなく、やりたいことをやれるようになればいいと思っています。何でもやってみなければわからないし「ゼッタイ無理~」と思うことでも、意外な方向に好転することってある。私はそれを私の人生の中で学びました。

そしてとにかく家族全員、いつも笑って生きていきたい。今はそう考えています。


日本語教師としてプーケットへ
夢は子供たちとバックパッカ―で世界を回る

小山直之さん

プーケットへは、大学の講師として来ました。プリンス・ソンクラー大学が、日本語講師を募集していることを知り、応募したのがきっかけです。もともとタイとの出会い自体は、もう15年も前になります。20代の頃、バックパッカ―として世界各地を回っていた時。当時はヨーロッパに憧れ、地中海周辺、イタリア、モロッコからエジプトなど様々な国を旅していました。90年代のことです。その旅行の最終段階で、たまたま立ち寄ったのがタイ・バンコクでした。

 正直、東南アジアにはまったく関心がなかったのですが、その時にタイの東北部・カンボジアとの国境近くにあるシーサケートを訪ねたんです。王朝の遺跡が残る場所を見てみようと思いました。
そこで偶然に日本語を話すタイ人と知り合いになり、NGOとして活動している日本人のところに連れて行かれました。その日本人の方は、地元のタイ人のためにいろいろなボランティア活動をしていて、子供たちの奨学金支援などもされていました。
同じNGOメンバーの中には、カンボジアで地雷撤去をやっている人もいて、すごい、と思い、タイでの日本人の活動に興味を持ち始めたんです。その時は私自身、何も協力できませんでしたが、翌日、またそこを訪ねてみると「一緒にやってみないか」と誘われました。その頃の私は、派遣やアルバイトをして好きなことをやっていましたので、すぐにタイ行きを決行し、約10カ月、彼のもとで過ごしました。

 タイの人はみんなとても親切でした。私が住んでいたシーサケート周辺の人たちは貧しい暮らしをしていたのですが、それでも家に私を招いて、飲み物を買って来て出してくれたり「食事をして行け」と誘ってくれたり。人が優しい。物価も安く、もちろんスーツなど着る必要もない。だんだんとタイで暮らす魅力を実感しはじめていました。

 再度来タイ、そして運命の糸が
バンコクでの出会いを導く

 その後いったん帰国したものの、タイ語も少し覚えましたし、タイとつながっていたいと思うようになっていました。そして再度バンコクへ。
何とわずか1
週間でタイ人の家内と知り合ったのです。タイ語を覚えるのに早くタイ人の友人がほしいと思っていましたので、ちょうど私が住んでいたアパートの対面に住んでいて、暇そうにしていた家内と知り合いになりました。
その当時も日本語の需要は非常に高かったので、私は日本語教師の資格を取るためにいったん帰国。専門学校に通い、日本語教師の資格を取得し、1
年後にバンコクへ戻りました。
そして、たまたま立ち寄ったアソークのサミット・タワーでプリンス・ソンクラ大学の日本語教師募集の広告を見つけました。すぐに連絡すると、明日来て欲しい、ということになり、翌日面接、その場で即採用決定。とんとん拍子に話しが決まり、妻とともにここプーケットに移り住むことになりました。
2004年の津波があった年ですから、もう9年になります。あっという間でしたね。今では8歳の長男、6歳の長女とともに一家4人暮らしです。

 プーケットはタイの中でも物価が高いことで有名です。住みにくいと感じることもありますが、子供たちはここの学校に通っていますし、私も、今の大学に正式に日本語学科が設立されるまでは、この仕事を続けるつもりでいます。その後は、子育てがひと段落した妻とバトンタッチし、主夫になりたいと考えています()
妻は、観光学部の大学院を卒業していて、バンコクでは自動車関係の仕事をしていました。

 妻は英語を話しますが、夫婦間ではタイ語、妻と子供はタイ語で会話をします。唯一、私と子供が日本語でコミュニケーションを取っています。大学は残業もないので、なるべく長い時間、子供と日本語で話せる環境を作ろうと心がけていますね。
子供たちは日本語の漫画を読むのが好きですし、日本語には興味がありますが、タイ語に比べますと若干語学力は落ちるように感じます。

 子供たちはタイで教育
自由に、好きな道を歩んで欲しい

 子供は二人とも日本が好きなので、最低でも年1回は日本に帰ります。住民票もまだ日本にあります。ですが、子供はタイの学校で学ばせようと考えています。
今、二人が通っている学校は、英語の授業の後に、同じ内容でタイ語の授業をするカリキュラムです。だから宿題もダブル。テストも多く、あまり外で遊ぶ時間もない。見ていると大変そうですね。
私が彼らの年齢の頃は、学校帰りに寄り道をしたり、買い食いしたり、暗くなるまで外で遊んだりした思い出がありますが、ここではそういった機会があまりなく、ときどきかわいそうに思います。このところ、タイは教育に力を入れていますし、多くの子供たちが流暢に英語を話します。

 語学はとても重要だと感じます。言葉が通じれば、どこででも生活できるわけですから。タイの中では、以前ほど日本語が重視されていないように感じます。タイを訪れる日本人より、むしろ日本を訪れるタイ人の方が増えている。これからは、タイ語の需要も高まるかもしれませんね。

 そんな中、タイで学び、タイで育つわが子たちには、自分が夢中になれること、好きだと思えることを見つけ、自由に生きてほしいと思っていますよ。そしていつか、成長した子供たちと一緒にバックパッカ―として世界を回りたい。それが今の私の夢です。


 

世界視察旅行の後、プーケットに夫婦で移住
林田さんご夫婦。
 

定年後に海外で暮らすのが夢でしたから、夫婦で視察を兼ねて、いろんな場所に行きました。最初は、カナダでした。勤続35年の報奨金が入ったので、バンクーバーやロッキーマウンテンのバンフ国立公園に2週間ほど滞在しました。美しいところでしたが、ビザの取得が厳しいように思われたのと、物価が高いので年金の額などを考えると、ちょっと難しいようにも感じました。それに9月なのに初雪が降って、とても寒かったのを覚えています。

 次がオーストラリアでした。最初はシドニーで、その後パースに3ヶ月程、滞在しましたが、やはりビザの取得や生活費などハードルが高いように感じました。それと飛行時間が10時間以上もあり、それも辛かったです。ニージーランドにも行きましたが条件はオーストラリアと似たり寄ったりでした。ある方から「半年ごとにオーストラリアとニュージーランドを行ったり来たりする方法もある」と勧められましたが、いかにも大変そうでした。

セブ島にも行きましたが、どうも私はフィリピン人と相性が良くないように思えて、あまり気に入りませんでした。それから台湾やマレーシアにも行きました。マレーシアのキャメロン・ハイランドは海抜1000㍍の高地にあり、気候もよく、軽井沢のような雰囲気でした紅茶畑があったりして、とても素敵なところで、2ヶ月くらいずつ3、4回行きました。気に入りましたが、毎日5回、イスラムの寺院から大音響でコーランが流れてくるのと、アルコールを嫌がる人が多かったのが、ちょっと難点でした。レストランにお酒が置いてなかったり、ビールが気軽に手に入らなかったりするのは不便でした。

その後がチェンマイです。10日くらい滞在しました。その時、ピン川が氾濫して洪水になり、ホテルの周りは水浸しで、駐車場で車が浮かんでいました。特にマイナス点はありませんでしたが、プーケットの情報が入るにつれて、行ってみたくなりました。最初の訪問は2009年の2月です。カタ・ビーチのホテルに 2週間滞在しましたが、人があまり多くなく、落ち着いていたので、好印象を持ちました。9月に再び訪れ、今度は1ヶ月滞在しました。このときは、はっきりと移住を意識していましたが、すっかり気に入りました。ホテルの近くに日本人経営のダイブ・ショップがあり、そこの女性オーナーがとても親切な方で、いろいろ教えてもらいました。彼女からラワイ・シービュー・コンドミニアムを推薦してもらい、すぐ1年契約を結びました。海に近く、プール付きで広さも手ごろでしたし、従業員が英語を喋れたのも安心でした。

2009年の12月からプーケットの生活が始まりましたが、住み始めてから、「あれ?こんなはずじゃなかった」ということは、ほとんどありませんでした。ただ、何をするにも全部手探りの状態で、最初の1年はいろいろ忙しかったです。銀行口座を作るのも大変でした。

プーケットの生活では外食がもっと多くなると思っていました。屋台なんかで食事をする機会が多いのではと思いましたが、意外と少なかったです。普段は日本風の家庭料理を食べながら、気が向いたときにタイ料理を食べる生活です。食材も日本のものがほとんど揃いますから便利ですね。タイ人とのお付き合いは意外と少ないです。言葉の問題がありますから、挨拶程度しかできないことを残念に思います。

生活の軸になっているのはゴルフです。週に2、3回はやっています。今年の3月にプーケットカントリークラブの会員になりました。家に篭っていると体力的に下降線を辿ることになりますから、なるべく外に出るようにしています。読書やテレビも好きですが、日本人会の図書貸し出しは、ありがたいですね。

プーケットや海外に移住を考えている方へのアドバイスですか?もし来たいと思ったら、さっと来てしまう。世間がどう見るかとかがネックになって、なかなか来られない人もいますが、とりあえず、来てしまう。「ダメだったら、帰ればいい」と私たちは、いつも思っています。身の回りの整理をすれば、気持ちの上でも軽くなって、身軽な生活ができるんです。

 人付き合いでも、これまでの友人・知人との縁が切れてしまうわけでもありませんし、逆に日本の良さが分かったりして、こちらから日本に一時帰国するのが楽しみになったりします。また、寒いのが苦手なのでTシャツ、半ズボンでいれるのは嬉しいですね。体のコンディションも快調で血液の循環がスムーズになったような気がします。

タイ人は、本当にフレンドリーです。日本に帰ると、まるで自分が透明人間になってしまったような気持ちになることがあります。自分の存在が他の人の目に写っていないんじゃないかとさえ思ってしまいます。街を歩いていても、他の人と視線がほとんど合いませんから。特に日本の中年男性は、周りに目がいっていませんね。タイ人の笑顔は、とって付けたようなものではなく、心が篭っているように感じます。ああいう笑顔が日本には少なくなりましたね。

プーケットでは、「感じ悪い・・・」と思うことがほとんどありません。素晴らしいことだと思います。対応が鈍く、もたもたすることはあっても、嫌な気持ちにはなりません。時間にルーズだとか、約束を守らないのは、確かに問題ですが、最初から期待していませんから、それほど気になりません。

まあ、夜騒々しい人たちがいたり、近所の犬の躾ができていなかったりするのは、気になる点ではありますが、よその国に来ているんですから、敢えて言うべき話でもないように思います。「嫌なら、帰ってよ」って言われそうですから。

様々な候補地からプーケットを選ばれた林田さんご夫婦に、その決断の是非をお伺いすると・・・。

プーケットに来たのは正解だったと思います。「ここは、いい!」と思いました。他の場所は、「まあ、いいかな・・・」という程度でしたから。
海を見て、自然の佇まいを感じながら暮らす。私たちは、「ここしかない」と思いました。
大変満足しています

 

 林田さんご夫婦のご自宅

教師生活数十年、日本語教育に情熱を注ぐ金塚英蔵さんに聞く

「教育の現場は宝の山です」

栃木県で足利市を中心に小学校等で先生をやられておられた金塚さんは、プーケットに移り住んだ動機についても補習校の存在が大きかったといいます。現在の補習校の問題点や今後についていろいろご意見を伺いました。

 

補習校に通ってくるお子さんには、宗教や家庭の事情、帰国するかもしれないと思っている親もいれば、ずっとここで暮らしていこうと思っている親もいます。そういった様々な子供たちが集まってくるわけですから、補習校も、学校としてバックボーンとなるものは何か、心をどこに置くかをしっかり決めておかねばならないと思います。

私は、タイ人とか日本人に関係なく、子供たち同士がお互いを認め合う心が一番大切だと思っています。相手のいいところは学び、そして支えあう。学校とは、そういう場であるべきだと考えています。

また、学校は勉強を教える場所ではなく、勉強の仕方を教えるところだということも忘れてはいけません。勉強は忘れても、勉強の仕方は忘れません。物の見方、考え方を教えることで、それがお互いを認め合うことにつながります。子供たち同士で、「~さん、よく分かったわね」「~くん、すごいなあ」とお互いに認め合うようになるのが理想です。相手がタイ人でも、日本人でも、みんな教え方は同じですね。

それと、大切なのは集中力です。例えば、ある本の、あるページを書写させるとします。普通にやらせると、20分かけて半分も終わらない子もいますが、「じゃあ10分でやって」と条件をつければ、だいたい10分でできてしまうものです。無駄な時間を使わせないことも大切ですね。

また、先生方の講習も必要だと思います。お母さんたちのボランティアが中心で、未経験の方がほとんですが、月に一度、1時間の講習でも、ずいぶん違うと思います。少ないながらも謝金が出ているわけですから、先生方がもっと勉強する機会を与えてあげるべきだと思います。私以外にも教育経験が豊富な方もいっらしゃいましたから、そういう方の意見をもっと取り入れるべきではないでしょうか。

素人の先生だと、なかなか難しいかもしれませんが、経験があると、生徒の実力を掌握できるようになります。生徒の実力といっても、それほど細かいことではありません。例えば、ある例文を読み聞かせるとします。

1年生の子は、大体をつかむのが基準となります。うやむやだけど、なんとなく意味はわかっている。そんなレベルです。
2年生は、話題をつかむことです。何の話か聞かれたら、答えられるのが2年生のレベルです。
3年生になると要点です。「話の中心は何か」が分かるようになります。ただし、箇条書きになってしまいます。
4年生は要約です。話の中心を箇条書きではなく、文章でまとめられるようになります(段落相互関係)。
5年生では、要旨をつかめるようになります。要約した文を、「端的に言えば何か」が答えられます。例えば、「20字以内で答えよ」等の問題は5年生からです。
6年生は、5年と同じですが、より発展します。

また女児は男児より文章が得意で、男児は箇条書き的になりますから、その辺も認識しておく必要があります。そして、生徒の能力が分かる先生は、生徒を褒めることができますけど、分からない先生は、それができません。実際、補習校には素晴らしい生徒さんがたくさんいましたから、もっと褒めてあげればいいと思いました。

昨年から補習校を見てきた中で感じたのは、いろいろ問題が起こって、学校の形式や体裁を整えるのに四苦八苦していて、中身にまで手が回っていないように思います。

生まれは台湾で、10歳くらいまでいました。子供だった自分が見た(日本の植民地だった)当時の台湾を思い出すと、日本から来た先人たちが、いかに台湾のために働いたかということがよく分かります。今の台湾があるのは、日本がインフラの整備をやったことが大きいと思いますが、タイでも同じことだと思います。自分たちのためでなく、「タイのため」「タイ人のために何ができるか」、そういう考えでなければいけないと思います。

今でも、台湾に墓参に行くと、周りの人たちが日本の歌を歌ってくれます。本当に嬉しいですね。台湾には、昔の日本のような義理人情が残っていますし、架橋の教えである「信頼」が古い日本の良さと結びついています。裏切りがありません。

また、タイに来たのも、10年ほど前に台湾のライオンズクラブがチェンライに寺子屋を造ることになって、そこを手伝うためでした。しかし、生徒にはミヤンマー人が多く、それが問題視されてしまい、圧力がかかって寺子屋は無くなってしまいましたが、その後、バンコクにコンドミニアムを購入し、日本と行ったり来たりの生活をした後、知人にプーケットを進められ、移り住みました。

今は、ボランティアで近所の子らを中心に日本語を教えています。
日本語が学びたいと思うタイ人がいるのは、教育者として嬉しかったですね。学生さんらの生徒3人で始めたのがスタートです。

金塚さんの日本語教室
対象学年:小学校1年生から中学校3年生くらいまで。
曜日と時間:低中学年は平日の4時30分から。高学年は平日で時間は話し合いによります。中学生は土日でも可です。無料ですが、インク代を負担していただく場合があります。

大切なことは、私も子供たちも、共に継続して学んでいくということです。教師と子供は共に学ぶ環境であってほしいものです。教師が感動することが大切だと思っています。

金塚さんのご自宅は閑静な住宅街にあります。
 
 彼との恋が実った、そのわけは・・・・
プーケット補習校教務主任 草場規子さんインタビュー
 
10年くらい前、友だちと2人でプーケットに遊びに来ました。確か3回目の滞在でしたが、そのとき事件に巻き込まれ、大金を取られてしまいました。
警察に届け出たのですが、外国人でタイ語も話せませんでしたから、あまり相手にされず、困っていたら、何人かのタイ人が助けてくれて、その中の1人に彼がいました。
私自身、状況がはっきりと分かっておらず、うまく説明することができなかったのですが、彼は捜査のようなことまでしてくれて、助けてくれました。
一緒に来た友人は予定通りの日程で帰国しましたが、私は残って彼と一緒に犯人を探しました。オープン・チケットの期限(1ヶ月)いっぱい滞在しましたが、結局、このときは犯人を捕まえることはできませんでした。
 

日本に帰って、事件のことは諦めていましたが、彼のことは、よく思い出しました。「親切な、いい人だったなあ・・・」と、またプーケットに行きたくなりました。
日本の男性は恥ずかしがりやが多いように思いますが、彼のストレートな(愛情)表現が新鮮に感じました。言葉の壁があるのに理解しようとしてくれて、「お巡りさんより、ちゃんとしている人がいるんだ・・・」と思いました。ですから、次にプーケットに行ったときは、「彼に会いたい」というのが目的でした。

2度目のプーケットは、しばらくは何もせず、ぶらぶらしていましたが、パトンビーチを歩いていたら、偶然、犯人と出くわしました。びっくりしましたが、当時は携帯を持っていませんでしたから、慌てて彼の友だちのところまで走っていき、彼と連絡を取ってもらいましたが、彼が駆けつけてきたときには、既に犯人の姿は見あたりませんでした。

残念ながら、とり逃がしてしまいましたが、そのことを前回一緒にプーケットに来た友人にメールで報告しようとオーシャン・ショッピング・センターの向かい側にあったインターネット・カフェに行くと、そこで、再び犯人に遭遇しました。

また走って彼の友人のところまでいき、私は現場から離れたまま、まだ戻っていませんでしたが、飛んできてくれた彼が犯人たちを発見し、会ったこともないのに、警察で見たATMの防犯カメラの映像で容疑者の顔を覚えていたようで(この人、刑事か!)、2人組の女性をその場で逮捕、通りかかったトゥクトゥクを止めて、運転手に「警察だ!署まで行ってくれ!」と嘘をつき、運賃も払わず連行していったそうです。

犯人グループは外国人でした。男女に分かれて行動していたようで、狙いを定めるのが女、実行するのが男と役割分担していました。捕まえた女に口を割らせ、別の場所にいた男2人も逮捕できましたが、主犯格の男は見つかりませんでした。その後、2,3年、懲役に入ったようです。

その後は、彼の紹介でツアーインフォやタイム・シェアの仕事をしたり、そこで知り合った高学歴の人に就職活動を教えてもらい、タボンビーチビレッジで数年、エバソン・プーケットで1年働きました。その後は主婦ですが、主人がパンヤー・レストランの隣でガソリンスタンドをやっています。

草場さんは、プーケット日本人補習授業校で教務主任を務めておられます。今後の補習校のあり方や方向性をお尋ねすると・・。

学校(勉強だけでなく日本の伝統・文化を教えたり、グループ活動の指導等も行う)としてやっていくのか、学習塾のような形(国語学習中心)にするかは、難しい選択です。今は中間くらいでしょうか。一保護者としては、学校として、やっていってほしいです。毎週土曜日は日本の学校に行くというスタイルがいいと思います。
もっと勉強がやりたい家庭は家でやって、あまり勉強しない子も、土曜日は学校で日本語に触れればいいのではないでしょうか。

また、これまでは記録の管理がずさんだったので、自分の次に先生をやる人のために資料を残したいです。自分が先生をやり始めたときは何もなかったから大変でした。
今年度から毎週、日誌を発行しています。担任の先生による授業内容の説明や宿題等について書かれています。保護者のアンケートでも好評でした。
先生の数に余裕があれば、もっと細かくクラス分けをしたいですね。

子育ては、特に注意していることはありません。ご飯をたっぷり食べさせることくらいでしょうか。栄養士の仕事をしていましたから、栄養には注意しています。

最近、韓国ドラマをよく見ます。子どもが寝て、静かになったとき、1人で見るのが楽しみです。切ないところが、いいですね。友人にも、韓流のファンが数人いて、よく語り合っています。出演者がイケメンのところも気に入っています。なんとなく、「うすい」感じがいいですね。色も白くて新鮮な感じで、清潔感があります。

夢はマイホームです。家を買いたいですね。2階建てで、一階が大きくて、2階に3部屋くらいあって・・・。カトゥーのあたりで買えればいいんですが。

最後に、プーケットで暮らすきっかけを作った犯人グループについて尋ねると・・・。

犯人グループは出所後に国外退去処分になりタイには戻ってこれないようです。別に、もう一度会いたいとは思いませんが、彼らがいなければ、主人と結婚できませんでしたし、今の暮らしもなかったでしょう。事件のとき捜査を担当した警察官がその後出世して、お店を出すときの営業許可も取ってくれました。高額のお金を奪われ、嫌な思いもしましたが、結婚紹介センターにお金を払ったような気持ちでいます。

犯人たちを最後に見たのは裁判所でした。留置場の暮らしは大変なのか、すごく痩せて可哀想でした。犯罪はいけないことですが、もしかしたら、彼らは、(私や家族にとって)すごくいいことをしてくれたのかもしれませんね。