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新春特別大企画 プーケットにちょっと詳しい人なら、日本人会の会長を長年勤められた宮下さんのことを知っている方も多いと思いますが、カタ・ダイビング社長としての宮下さんは、住んで暮らしている人にも、意外と馴染みがないような気がします。今回は新年特別企画として、人間・宮下和司さんにスポットを当ててみました。 「あれは33年前・・・」若干27歳の宮下青年は、プーケットに初上陸した。 25歳のときだったかなあ・・・、思うところあって世界を目指して放浪の旅に出たんだ。まず、横浜から船に乗って旧ソビエト(現ロシア)のナホトカ(極東の軍事拠点ウラジオストックに近い港湾都市)へ。そこから国際列車でハバロフスクに向かい、そこで飛行機に乗り換えるグループと、そのまま列車でモスクワを目指すグループに分かれたけど、俺は貧乏だったから列車グループだった。モスクワまで1週間かかったよ。列車内の食事が余りにも酷かったので、途中駅で食料を調達。最終目的地は南米だったけど、当時は、シベリア鉄道が一番安く欧米に出る方法がだったんだな。 バイカル湖を越えるのに丸1日近くかかったのには驚いた。あまりの大きさに海辺を走っているのかと思ったよ。6月下旬だったけど、日没が遅く、夜10時になっても太陽が沈まなかった。「もっと北上すれば夏場は白夜だろうか」、なんて想いながら大陸の大きさ、景色に感じいった。中に北朝鮮の高官制服組らしき人たちも乗っていて、お国自慢を聞かせてもらったけど、オレ自身のイメージとはかけ離れた感覚だった。今思えば日本人拉致事件が頻発してた頃だったから、複雑な心境になってしまう。 あの頃はインター・ネットはなく、ラジオの国際短波放送で情報を得ていたような時代だった。高校生の頃は、「卒業したら、すぐ海外移住だ!」、なんて考えた事があったけど、あまりの無謀さが母親にバレて、こっぴどく怒られた。当時は海外の情報は殆どアメリカからで、アメリカの対ベトナム戦争など何か違和感を感じていたんだ。「百聞は一見にしかず」と言うけど、大きな未知の世界を自分の目で確かめたかった。 旅は1日10ドルが基本。「地球の歩き方」は今とは全然内容が違っていたけど、持って歩いてると情報源が同じだから、どこに行っても日本人の貧乏旅行者に出会うことになる。全部で30カ国くらい回ったんじゃないかな。 当時は、お金はないけど探究心が旺盛で、体力だけは自信があった。学生用のユーレイルパス(西ヨーロッパ全ての国がフリーパスになる鉄道周遊券。1週間から数ヶ月まで各種有り)を利用して寝台列車をホテル代わりに国から国の移動に利用していた。 ところが、エジプトでウイルス性の肝炎に感染し、スイスでトレッキング中に発病、かなりの体調不良だったけど、やっとの思いでフランスのパリにたどり着いたものの、病院には行かず、「先ずは芸術の都だから、ルーブル美術館だ!」と向かってしまい、ソファーに座って暫く休んで立とうとしたら、体が重くて1人では歩くこともできず、とうとう入院するはめに。 病院ではフランス語でチンプンカンプン(でもナースはフランス人形を見るようだった!)、困っていたら日本大使館の職員さんが来て助けてくれた。 旅が中途半端に終わってしまったので、また行きたいという思いは募るばかりだった。でも、金がないから、とりあえず働かないとね。いろんな仕事をやったなあ。T自動車の自動車組み立て工場でも働いたよ。当時の工場は目的意識を持って働いている人は、ほとんどいなかったから、みんなに、「お金貯めて、海外に」なんて言ってる俺は、不思議な目で見られていた。 仕事は人間ロボットそのもの。機械的に同じ作業を延々と繰り返すんだ。人手が不足してくると十数時間労働になったけど、人間の集中力には限界がある。睡魔が襲ってくると貼るべきステッカーを貼らなかったりして、頭がおかしくなってくる。まるでチャップリンの映画の世界と同じだったよ。 某デパートのメガネ売り場でも働いた。なぜか成績がよくて、売り上げベスト3に入っていたから、辞めるときは、ずいぶん引き止められた。今思うと、18k/金縁フレーム(山の手の奥様が買っていく),べっ甲フレームなんか、よく売ってたって感心するよ。 付き合っていた女の子もいたけど、こんな性格では一生結婚は無理だなと思っていたし、高校から大学へ、卒業後は就職、そして結婚・・・・そういう人生計画は俺の頭の中には全くなく、「世界には、もっと自由で凄い可能性があるんじゃないか」なんて勝手に思い込んでいたね。 2年間日本で働いた後、また懲りずに旅に出た。今度は飛行機で南回りだった。もう、列車の旅で1週間もかけてられないと思ったもの。スペインで言葉を覚え、それから南米に飛ぶ計画だったんだ。マドリードには1年近くいたけど、スペイン料理とスペイン娘との出会いを求める為の言葉は覚えたけど、俺のは、なんか変なスペイン語だったな。今のタイ語も似たり寄ったりかもしれないけど・・。 スペイン人の友人に「クリスマス迄にはマドリッドに戻るから」と伝え、船でジブラルダル海峡を渡って、そこからバスに乗ってモロッコにも行った。当時のモロッコは刺激的だった。(注、不穏当発言多数のため一部削除します。何が刺激的だったのかは、本人から聞いてください) 「どうして、そんな危険な所に行くんだ」って、よく言われたよ。確かに隙あらばと近寄ってくる奴はいるけど、経験則で馴れてくれば、それなりに対処できるようになる。「あの街は危ないゾ、気をつけろ」、そういわれると逆に興味がわいてくる。そういう場所って歴史や、そこでしか体験できない風俗・風習があって、いろんな地元の人にも出会えて面白いんだな。 当時のオレは欧米にばかり目がいっていて、アジアはまるで眼中になかったが、ひょんなことから、足を踏み入れることになっちゃった。南回りの飛行機だったから、いったん、バンコクまで戻って、そこから南下し、憧れの南米に渡ろうと思ったの。 バンコクでは、有名な楽宮旅社に泊まった。牢獄のような構造だったんで、火事になったら出てこれないと思い、一泊だけして、次の日、マレーシア・ホテル(これも有名。バック・パッカーの聖地)に移ったけど、そこで知り合ったヨーロピアンの若者から、「プーケットは、ヘブン(天国)のようだ」と吹き込まれ、行きたくなってしまったんだ(!)。エアコンなしで、扇風機がぶんぶん回るバスに乗ってプーケットに初めてやって来たのが、33年前・・・、確か、オレが27歳のときだったんじゃないかなあ・・・。 (以下、続編へ) Kata Diving Service
1台のタクシーが60数台に! 1993年の春にプーケットに来ました。最初は「アメリカに行きたい」と思っていましたが、ジャパンタイムスに載っていたダイヤモンド・クリフのゲスト・リレーション募集広告を見て、「2年なら、プーケットに行こう」と思いました。修行のつもりだったので、特にプーケットに憧れていたわけではありません。2年間の予定が10数年になってしまいました。 主人も同じホテルのスタッフで、そのとき知り合いました。GMがたいへん厳しい人で、朝の6時から夜中の12時まで働いた日もあります。 その後、ラグナ・ビーチ・リゾートに1年、バンヤン・ツリーにも1年いましたが、子どもができたので退職し、結婚しました。子どもを育てるために、何かしないといけないと思い起業しました。 最初は車を1台買って、それでタクシー業を始めました。ホテルの前でお客さんを待っている、あのスタイルです。主人が1人でやっていましたが、2台、3台と車が増えていったのでオフィスを構えるようになりました。 タクシーの商売がうまくいくようになったとき、車のレンタル業を始めました。やはり、まず1台買って、それがどんどん増えていき、お客さんも付いて、大きな会社が年単位で借りてくれるようになりました。 奈落の底? はい。回していくだけで精一杯なんですが、いったんストップしたら奈落の底ですから、落ちないように走り続けるしかないんです。 最近はレンタル業の方が好調で、タクシー業はガソリン代が高く、あまり儲からなくなりましたが、捨てることができません。最初に始めた「本業」ですから残しておきたいんです。 ボートのチャーターもやっています。以前は3隻所有していましたが、メンテナンスが大変で、ガソリン代も高いですから、今は他から借りて、それをリースに出しています。 車も泥棒されたことがあります。知り合いの警察に捜してもらったら、バンコクの近辺で見つかりました。この商売をやっていると、警察とは仲良くしておかないといけませんね。警察やイミグレ対策は主人の担当です。 ビジネスで辛かったことですか?回すだけで精一杯でしたから常に辛かったです。けれど、もっとつらかったのは子育て。ビジネスと違って、子育ては24時間で、しかもエンドレス。出口も見つかりませんし、自分の時間がほとんど持てませんから、楽しめませんでした。精神的に余裕がなかったですね。子育てを楽しめる人は相当人間ができていると思います。私なんか、子育て本を読むだけで落ち込みますから・・・。 でも、一番下の子が小学校に上がったので、最近ようやく時間ができて、楽しめるようになりました。今、ヨガをやっていますが、そのときだけ、「自分のためにやっているだ」と感じることができます。
子育ての秘訣は、あまり物事の是非に囚われず、ありのままの自分と現実を受け入れる事かなぁ。そして、どんなに忙しくても自分の為だけの時間を少しでも持つことかなぁ、と感じています。 長男は、サッカー推薦で中学に入りました。13歳ですが身長はもう173cmあり、ゴール・キーパーをやっています。本当は学業の方でもっともっと頑張ってもらいたいです。 4児の母親にして、ビジネス・ウーマンである牧さんに、両立の秘訣を尋ねると・・・。 両立の秘訣?よくわかりませんが、自然に流される事なく、逆らうことなく、上手く乗ることかなぁ。子どもたちも計画的に作ったわけではなく、自然に生まれていきました。
そして、子どもが増えるに従って、ビジネスも大きくなっていきました。子どもが生まれるたびに、車が増え、子どもが生まれるたびに、土地が買え、子どもが生まれるたびに、家を買うこともできました。 「子どもたちがくれたビジネス」、本当にそう思います。 店舗に隣接した自宅と駐車場。
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