プーケットで大繁盛

特別大企画
プーケット日本人会の生みの親・宮下和司さんに聞く その5

何とかしなくては・・・・
小泉首相はプーケット名産のカシューナッツをすんなり受け取ってくれた!

津波の後しばらくは、朝帰りの日々が続いていた。
市内のホテルはビーチからの避難者で満室だったので、着の身着のままで逃れて来た日本人旅行者は行き場所がなかった。そこで日本人会の事務局や補習校の教室にござを敷いて仮眠室を作り、被災者の方々に大使館から仮のパスポートが発行され、帰国できる迄の間、そこで寝泊りしてもらうことにした。それ以外にも、病院や空港での通訳ボランティア、マスコミ各社との連絡、買出し、事務局で寝泊りしている被災者の方たちに少しでも寛いでもらおうと話を聞いたり、炊き出しをやったり・・・。けが人も重症でないと病院がいっぱいで入院させてもらえなかったんだ。

在留邦人の安否確認をするにも電話がなかなか通じない為、理事・役員で一軒一軒を手分けして島内を回ったら、確認を終えるのにに4日程かかった。プーケット在留日本人は全員無事だった。当時の手帳を見ると毎日帰宅が朝の3時、4時と書いてある。それ以外にも、いろいろ書いていあるけど、今読み返しても、意味不明でわからないものが多い。「12月28日、応援の人材確保、買出し、ござ、毛布、着替え用意、24人分食事、通訳ボラ願い・・・」と殴り書きしてあるのは、きっと被災者収容の準備だったんだろうな。

自分のショップのことも、もちろん心配だったけど、事務局もてんやわんやで、すぐ指示を出さなければならないことが多く、ずっと詰めっぱなしだった。津波の翌日か、翌々日だったか、正確には覚えていないけど、「クルーズ中のお客さんは、全員無事です!」と連絡が入ってきた。進水したばかりのクルーズ船も心配だったが、それ以上に最悪の事態も考えていたので、安否確認ができて、「ああ良かった!」と肩の荷を下ろしたよ。

数日後、仮設の大使館領事部は日本人会の事務局からロイヤル・シティー・プーケット・ホテルに移っていった。正月返上で、バンコクから駆けつけた大使館の方々は、24時間体制で対応しておられたので、大晦日に年越し蕎麦を作って届けると、公使から、「まさかこんな非常時に蕎麦が食べられるなんて」と、気ずかいを喜んでいただけた。そんな混乱の中で年が明け、2005年のお正月を迎えた。観光客やダイバーは、パタッと来なくなり、毎日予約キャンセルのファックスばっかり流れてきたけど、とりあえず、来ているお客さんに無事帰ってもらわなければならない。ショップのスタッフは大変だったと思うし、俺の留守を本当によく守ってくれた。しかし、しばらくするとショップは一気に閑古鳥になっちゃったね。

 正月早々の1月2日、公明党の国会議員の先生が3名、突然事務局を訪れてくれた。別にこちらからお願いしたわけでもないのに、どの政党よりよりも早く飛んできて、津波の被害状況を細かに視察していた。こいう時は、小さな政党の方が小回りが利くのかもしれない。現国交相で公明党前代表の太田さんを筆頭に、ずいぶんお世話になった。みなさん精力的に活動していたので感心していたら、その後国会の予算委員会で赤羽代議士が「海外に在留する邦人保護援助について今後国がどこまで対応できるのか」と質問してくれたんだ。

その翌週には、町村信孝外務大臣(当時)がプーケットに来られ、被災地を視察した後、事務局に立ち寄って、大使館と連携しての邦人の安否確認等の活動に謝辞を戴いた。南の島の小さな日本人会に、いきなり大物政治家が現れてビックリしたよ。同じ与党の公明党視察団からの報告を聞いて来られたのかもしれない。急遽理事、役員を集めて会談し、復興支援や補習校支援について相談にのってもらった。こんな機会はめったにあるもんじゃない。この時とばかりにいろいろお願いしたね。   

1月29日、外務副大臣だった谷川秀善衆議院議員が町村外務大臣からの感謝状を携えプーケットを訪れた。ヒルトン・ホテルのロビーで感謝状を戴いたけど、てっきり名前は達筆の毛筆書きかと思ったら、サインペンで地味に書かれていた。きっと急でいたんだろうね。

マスコミの取材もどんどん増えていった。日記には、日本テレビ、毎日新聞、朝日新聞、関西テレビ、NHK、テレビ朝日・・・・毎日アポが入ってきたけど、広報担当者がいるわけでもないし、日程調整が大変だった。「なんとか早く観光客を呼び戻したい。復興は順調に進んでます」とそれだけ考えて取材に応じていた。 

復興支援の要請に日本へは2度陳情に行った。一度目は1月16日からで、津波から3週間ほどしか経ってなかったので身支度もできず、持っていた夏用のジャケットと半そでのワイシャツで真冬の日本に行くことになってしまった。プーケットで暮らし始めて30数年間、冬場に帰国したことなんて一度もないから、冬服なんか持っていない。あまりの温度差に成田に降り立った時には、かなり気合が入ったね。凍えるような思いで東京にある親戚の家に直行してジャンパーとセーターを借りてから永田町に向かった。

まず議員会館の窓口で受付用紙に用件を記入して、ガラス越しの小さな窓口に差し出すと受付嬢が電話で秘書官とアポが入っているのか確認を取ってくれた。そして首から掛ける身分証明をもらって入り口に行くと今度は厳重に手荷物と身体検査をされて、やっとOKになった。空港より厳しい検査だったね。

議員会館内には地方から見学に来る修学旅行の団体やおのぼりさんでも利用できる大きなレストラン、代議士専用の個室もあり、ここでしか買えないお土産や代議士の名前入りのお菓子なども置いてあって、いたれりつくせりだったな。

 部屋のドアに付けられた名札を見ながら、私の故郷長野県選出の宮下一郎衆議院議員を訪ねた。同姓だから、誰かに紹介するたびに関係を聞かれ、一郎議員も困ったんだろうね。いつの間にやら、「遠い親戚」ということになってしまったんだ。

プーケットの被災状況の報告を終えると一郎議員は、「会長にお会いしたいという先生方が幾人もいるんだが、これからどうだろう」と言われ、プーケットに視察にも来られた宮腰衆議院議員と一緒に、まず自民党の幹事長に会いに行くことになった。しかし、なんといっても日本国の立法の最高権威である国会議事堂の中だから、議員の先生や秘書たちは、当然のように皆さんパリッとした背広姿で、そんな中、オレ一人がセーター姿で赤じゅうたんの上を歩いていたら、「この人、何者・・・?」という目で見られてしまったよ。下は黒の長ズボンだったけど夏物で、中にパッチを履いていた。いやいや本当に寒かったんだ。


そして幹事長室で武部勤自民党幹事長(当時)と会談、後に総理となる鳩山由紀夫民主党幹事長(当時)や自民党の麻生太郎総務大臣(当時)、二階俊博経産大臣(当時)、などなど、そうそうたる顔ぶれの国会議員の方々に復興支援をお願いした。どの代議士の方々も「津波はいずれ日本にも来るからな」と被災状況を真剣に聞いてくれたね。放浪の旅から始まった俺の、のんびりしたプーケット暮らしだったが、ここを襲った大津波がきっかけで、まさか国を動かす大物政治家の皆さんと、それも大臣室で直に会談する機会がくるなんてね。

 前回で懲りたんで、2度目はちゃんと紺のスーツを仕立てていった。相変わらず寒さが身にしみた2月23日だっが、この日は、9時より公明党主催で国会議員10数名が参加しての、「インド洋大津波被災状況報告会議」が設けられ、オレもプーケット代表として参加することになった。今思えば、この報告会議で作った資料が後で大きな意味を持ってくるんだな。かなり広い会議室だったけど、これが国会議事堂の中なのか、議員会館だったのか、さっぱり覚えていない。永田町っていうのは地下道で各々の建物が繋がっていて、議員や秘書官たちは、その通路を使って素早く移動するから、慣れていない外部の者には、何処にいるのか、よくわからないんだ。

そして外務省を訪ね、1月に日本人会に立ち寄られた町村外務大臣にその後の復興状況を報告し、国会に戻って細田官房長官と面談、国交省では観光審議官に復興のための観光客誘致のお願いで相談したりと、とにかく忙しかった。そうこうしているうちに、「明日、小泉総理大臣との会談を調整中なので、時間がまだ決まっていなが待機しててもらいたい」との連絡が公明党から急遽入ってきた。「タイ国から被災報告と復興支援願いでプーケット日本人会の会長が帰国中です」と公明党の先生たちが水面下でプッシュしてくれたんだろうね。

翌日、まず14時過ぎから議員会館で打ち合わせをした。先に開催された報告会議で作成した報告書を太田代議士が持参し、迎えに来た黒塗りのハイヤーに赤羽代議士とともに乗り込み首相官邸に向かった。SPが分刻みの無線のやりとりを繰り返し、ピリピリした雰囲気だったな。そして17時20分に首相との会見場所に通される。

太田代議士から紹介され席に着くと、まず官邸専属のカメラマンが一斉に中に入って来てバチバチ、カシャカシャとフラッシュと共に写真撮影が始まったが広報官の一言ですぐに退散し扉がしまって会談が始まった。

「総理は多忙ですので5分ほどしか時間が取れませんから要点を絞って話してください」と秘書官から言われていたんだけど、興味を持ってもらえたのか、実際には20分近くもの会談になった。

事前に大田代議士から「小泉総理はお土産類は一切受け取らない方です」と教えられていたんだが、手ぶらでお会いするのも気が引けたので、「これはプーケットの特産品です。まわりの皆さんでどうぞ」と帰り際にさり気なく差し出したところ、小泉首相は、「ああ、そう。どうも有り難う」と、心よく受け取ってくれた。同席した太田代議士が官邸を出た後「小泉さん、お土産受け取ってくれたね(笑)」と驚いていたけど、それくらい総理が陳情客から物を受け取るのは珍しかったそうだ。オレのお土産が見るからに質素だったんで、小泉さんも気兼ねなく受け取ってくれたのかな(笑)

小泉首相は、テレビなどで見るのとあまり変わらず、気さくで飾らない人だったが、大津波の状況を話した時にはさすがに目つきが変わったのを今でも思い出す。せっかく首相に会えたんだし、復興とは直接関係なかったが、プーケット在留邦人の為に、日本人会設立目的の一つであり、長年の目標でもあった領事館の設立をお願いした。数年前、プーケットの領事館設置が最終選考まで残ったんだけど、その時はシアトルに持っていかれてしまったからね。最後に総理から、「津波にめげず、頑張って下さい。応援してるよ」と言葉を戴き、会談が終了する。

会談を終え、出入り口に差しかかった時、いきなり報道陣に取り囲まれた。ニュースでよく見る光景だったけど、まさか自分が囲まれる身になるとは思いもしなかったな。あまりの人数の多さにビックリした。官邸には常時20-30人は張っているんじゃないかな。

津波が来たとき既に滞在中だった観光客はしばらくの間留まっていたけど、その人たちが帰ってしまうとプーケットは本当に閑散としてきた。いつもなら1年で最も賑やかな時期なのに、島内一の繁華街パトン・ビーチは、夜に灯りも点かず真っ暗だった。「待っていたらダメだ」と思った。なんとかしないと、どんどん観光地として忘れさられてしまう。会員の人達たちからも、そんな声が次々に入ってきた。WHO(世界保健機構)が「(被災した各地で)疫病の発生を危惧する」と発表したために、プーケットも危険な地域と報道されてしまったことも危機感を煽った。ここプーケットは乾季に入っており、あり得ないのだけどね。

そこで、プーケットの今の姿を、こちらからも積極的に情報発信しなければならないとの強い気持ちで、日本人会で「プーケット復興COM」を立ち上げ、若い人たちに自分たちのアイデアをどんどん出してもらうことにした。普段はあまり事務局に顔を出さない一般の会員さんたちも、このときは積極的に集まってきてくれた。会の存在意義や有り難味なんて、なかなか感じてもらえないんだけど、こういう非常時に外との窓口となり得るものは、やっぱり日本人会しかない。未曽有の大災害に直面し、創立から15年、苦しく、辛い思いもずいぶんしたけど、その努力がこのとき結実しようとしていた。プーケット日本人会が、そして、プーケットに在留する人たちが一丸となって、復興に向かっていく体制が徐々に整っていった。

次回は「日本人祭りと慰霊碑建立」

最後に、超レア写真初公開。





特別大企画 
プーケット日本人会の生みの親、宮下和司さんに聞く その

天国から地獄

2004年12月26日、津波がプーケットを襲った!
 

仕事は順調でダイバーもどんどん増え、少し余裕ができたので、思いきって念願だったクルーズ船を造ることにした。それまではデイ・トリップ用の船をチャーターして使っていたけど、ダイビング関係の仕事をしている人なら、みんな同じ夢をみる。まずは、自分のお店を持ちたい。そして、それが実現したら、今度は自社船を持ちたい。

設計にもこだわりがあったから、完成まで1年以上かった。船の船内って、狭くて薄暗いイメージがあったから、できるだけ広く造ろうと思ったんだ。天井を高くして、居住空間を快適にすることを心がけた。全長36,5m幅7,8mで全12部屋。乗組員はキャプテン以下総勢10名。キャプテンやコックだけじゃなく、タイマッサージのおばさんも乗せてしまった。

予想以上にお金もかかったし、「なんで、そんなにしてまで大きな船を造る必要があるんだ」なんて言われたけど、これはロマンだからね。やるしかないと思った。あの頃は本当に充実していたね。借金までして船を造るのはリスクも大きく、苦労も絶えなかったけど、とうとう夢が叶うと思うと士気も上がってくる。サムイやタオ島のショップもオープンしていたから、アンダマン海の外洋に出られない時期には、そちらで稼動させれば無駄はないしね。 建造中から日本のダイビング雑誌に載ったりして反響があり、事前予約のFAXがかなり入ってきていた。

ところが、船が完成し、進水して1ヶ月、忘れもしない2004年12月26日の日曜日。朝ベランダでお茶を飲んでいたら、地震があった。小さな揺れだったけど、いつまでも止まらない。最初は猫がガラス戸でも引っ掻いてるのかと思ったよ。プーケットに住み始めて初めての経験だった。テレビをつけるとバラエティー番組をやっていたけど、日本のように地震速報は流れてこなかったし、前夜の深酒が残っていたせいもあって、もの凄く気持ち悪くなった。とにかく嫌なムードが漂っていたね。

地震から2時間後、旅行会社の人とゴルフをしていたら女房から携帯に第1報が入ってきた。「パトン・ビーチがナーム・トゥワム(洪水)で大変よ」だって。まだツナミという言葉が知られていないときだったから、洪水と聞いて、水道管でも破裂して街中水浸しになってしまったのかと思ったよ。同じ頃、息子の慎太郎と仁司は水泳大会に出ていたんだけど、そこにパトカーが来て、海から大波が来るから、すぐ高台に逃げろと言われたらしい。ゴルフ場の周りではパトン方面に向かうパトカーや救急車のサイレンが鳴り響き、上空にはヘリも飛び交って、物々しい雰囲気になっていった。そのときになってようやく、「これって津波じゃないの?」って気がついたわけだ。

完成したばかりのクルーズ船はシミラン諸島にいた。ラッキーだったのは、津波が来たときは沖に出ていたんだ。もし島の近くに繋がれていたら玉突き状態で将棋倒しになっていたところだ。キャプテンが異変に気づき、フルノットで島から離れ乗り切ったけど、島と島の間にできた大渦巻きに巻き込まれ、呑み込まれそうになった船もあったらしい。デイトリップ船はピーピー島にいたが、津波直後は、どちらの船にも連絡が取れず、一時は最悪の事態も考えていた。

船は無事だったけど、翌日からの予約が一気にキャンセルになってしまった。当時はメールではなく、FAXが次々に流れてきて、「今回は中止させて下さい」だって。まさに、天国から地獄だったなぁ・・・。

ある朝、突然・・・

急いでショップのあるカタに向かったら、パトン方面の道路は完全に封鎖されていて通れなかったので、シャロンから回り込むことにした。途中、シャロンの港が使えるかどうか心配だったんで見に行くと、木製の桟橋が跡形もなくすっかり消えていた。今のコンクリート製に造り直されたのはこれ以降だね。

シャロン・ジャンクションでも、カロンやカタビーチ方面への道路は封鎖されていたけど、抜け道からうまくカタに入ることができた。ところが、ビーチに近づくと、人が大勢もの凄い勢いで走って逃げてくる。「津波がまた来たー!お前も逃げろ!」って言ってるんだけど、もう1時間以上経ってるから、いくらなんでも、それはないと思い、そのままショップに向かった。津波の後、しばらくは、そんなデマがよく飛び交っていたよ。

うちのショップは小高い場所にあったので建物の被害はなかった。だけど電話がぜんぜん繋がらない。ケータイはまったく使えず、固定電話がどうにか使えるようになったら、日本のメディアから、どんどん問い合わせが入ってきた。最初はすべてがプーケット発のニュースだったんだね。その日の夜、日本の報道番組に電話出演することになった。一度切ってしまうと繋がらないんで、そのままにして下さいって言われ、1時間出番を待った。カタやカロンの状況を確認しただけで、全容を把握していなかったけど、話が大袈裟になってしまったら、観光客が来なくなっちゃうからマズイと思って、「この周りは、ビーチから500mくらいやられただけで大丈夫です」「大したことありません」「もう片付け始めてます」と火消しに躍起になって喋っていた。このインタビューを聞いていた知人や友人達は、「おお、宮下は生きてたかー!」と安心してくれたみたいだね。

大使館もバンコクからすぐに飛んできた。さっそく日本人会の事務局で臨時の領事部と津波対策本部を作った。家主であるA&A社には、ずっと無理を言って使わせてもらっていたけど、このときは事務局がタウンの中心にあって、その後の安否確認や情報収集に大いに役立った。メルリン・ホテルと言えば、場所の説明もいらないしね。

日本人会の理事や役員、会員さん達も次々に集まってきて手伝ってくれた。2階の日本人会事務局が領事部と津波対策本部、3階の補習校にはゴザを敷いて、被災者やスタッフのための休憩所兼宿泊所にした。炊き出しもやった。各家庭に分担して、おにぎりを作ってもらったり、着替えを用意してもらったり、みんな本当に一生懸命支援してくれたけど、翌日の27日から年明けの3日まで、家に戻るのが明方の4時ごろになってしまったよ。いろいろ大変な思いもしたし、運営を続けるには苦労も多かったけど、この時ほど日本人会を作っておいてよかったと思ったことはなかった。

大使館の人達も献身的に働いていた。でも、ついつい、いつもの使い慣れた言い回しになってしまうようで、「下で指紋押捺のコピーを撮ってきてください」なんて被災者に言ってしまったりする。悪気はないんだけど、みんな着の身、着のままで、お金もパスポートも持っていない人達だったから、ずいぶん気分を害したようで、「なんだお前たちのその目つきは」って、手伝っていたオレ達まで怒られちゃった。近くにいたから大使館員だと思われたみたい。でも、みなさん帰国時には、「ありがとうございました、おにぎり美味しかったです」ってお礼を言ってくれたけどね。

日本人会は、一軒一軒回って在住者の安否確認を行った。在留届を出していない人もいるから、大使館でも在留邦人全員の居所は分からない。会員名簿が役に立ったね。邦人会員の犠牲者はプーケットにはいなかったけど、会員さんでタイ人のご主人が流されて亡くなられた人がいた。ワチラ病院にも、日本人の死亡者や怪我人が運び込まれていないか調べに行ったけど、収容しきれない遺体がシーツに包まれ山積みになっていた。被害状況は、地形によって明暗くっきり分かれたね。プーケットでも、遠浅のパトンやカマラの被害は大きかったけど、数日後に訪れたカオラックは悲惨だった。ヨーロピアンが多く、更地のテント張りには見るも無残な写真が貼り出され、家族と思われる人達がくい入る様に身内を探していた。道路沿いに、きれいに丸くなった大きな鉄くずが積んであるから、「なんだろう?」と思ってよく見るとバイクだったんだ。津波のエネルギーは本当に凄い。

日本からの取材が殺到していたけど、インドネシアのバンダアチェ州の方が被害が大きいという情報が入るや、手の平を返すように、みんな、そっちに行っちゃった。でも、津波が来たのが12月26日だったから、まだ被害が少なかったのかもしれない。4,5日ずれていたら、被害者は数倍になっていただろう。

普段、仕事でも、生活でも、観光客を相手にオレたちが見ているのは、いつもバンコク、そして、その先にある日本だと思う。でも、このとき初めて気がついたけど、その逆方向にあるインドネシアの方が、ずっと近くにあるんだね。まるで関心がなかったインドネシアだったけど、背中から、ガツンと殴られたような気持ちになったよ。

あの顔も!この顔も!プーケット・スーパースター列伝

 
次回は、「さあ復興だ!小泉総理に会いに行くぞ!」ですが・・・予告編をどうぞ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みなさん、お楽しみに!

 
 
<第3部プーケット日本人会結成編>
プーケットはどんどん発展し、ビジネス、日本人会、補習校、そして育児・・・すべてが順調だった

日本での営業活動を終え、プーケットに戻ってくると、一週間も経たないうちにFAXが流れてきた。「お客さんを送ります」だって。嬉しかったなあ。けんもほろろに断れた旅行会社もあったけど、自分の努力が無駄にならずに本当によかった。でも、あの頃はバブルの絶頂期だったから、日本で昔の友達に会っても、みんな羽振りがよくて肩身が狭かった。

「プーケットってどこ?・・・お前、そんなとこで、何してんの?」なんて言われてね。 当時のダイビング業界では、タイ人経営のサンデー・ダイビング(仮名)が日本人マーケットでは強かった。ダイビング・ライセンスの講習が中心の営業だったけど、人気はあったね。受講者が道路を集団で横切るとき、車の流れがしばらく止まっていたという逸話も残っているくらいだ。でも、まだ日本人インストラクターの数が足りない時代だったから、いろいろ問題は多かったみたい。俺はアンダマン海の魅力を紹介するほうを前面に出して、講習中心の営業とは一線を画していた。


 日本のダイバーにプーケットの海を知ってもらおうとクルーズを企画して、ダイビング雑誌に特集記事を載せてもらった。あの頃は、「マリン・ダイビング」、「ダイビング・ワールド」、「ダイバー」と3誌あって、世界中の海を競って紹介していた。今はネットの時代になって、広告媒体が変わってきたね。取材は、まず前年に水中カメラマン、ライター、モデルさんに来てもらい、それを翌年のシーズン・インの前に紹介してもらう。凄いカメラマンがいてねえ、船上では陸に上がった河童みたいにグダーっとしてるんだけど、一旦海に潜ったら、重機材を両腕に抱えて、バリバリ写真を限界ぎりぎりまで撮りまくる。プロの凄さにびっくりしたよ。

タイアップ記事で雑誌社の広告スポンサーになっているいろんな旅行会社とお付き合いもできて、ビジネス・チャンスが広がったね。「地球の歩き方」にも広告を載せてみた。当時の若者は、ほとんどこのガイドブックを持ってて旅をしていたから、影響力は大きかった。ふつう、ダイビングのツアーは一般の旅行会社では扱わないから。こういった広告戦略もうまくいって、プーケットを訪れるダイバーが順調に伸びていった。あの頃は、何か企画すると様々な方面に反響が広がって、いろんなところから予期せぬリアクションが返ってくることもあった。タイ国政府観光庁が応援してくれるようになったのもその一つで、国として南タイの海を積極的に紹介してくれるようになった。業界全体が文字通り右肩上がりだったけど、営業成績より、プーケットの海が日本人ダイバーに認知されてきた事の方が嬉しかったね。まあ、そこに行き着くまでは試行錯誤の連続で、苦労も多かったけど・・・。


 新人のインストラクターが入ってきても、1年間は講習やデイ・トリップの担当にして、ガイドとして一人前になるまでは、シミラン・クルーズはお預けにしていた。当然、みんな、「早くシミランに行きたい」と思うから、一生懸命努力する。スタッフのレベルは自然に上がっていったね。そういったショップ内の雰囲気も、とてもうまくいっていたと思う。でも、1990年の湾岸戦争のときだけは、さっぱりだったよ。中東上空で飛行機が撃ち落されるんじゃないかっていう噂が流れたりして、ヨーロッパ人観光客がほとんど来ない。みんな暇を持て余していたから、夕方になると、何処からともなくタイ人の仲間が集まってきて、毎夜のごとくメコンのソーダ割りで飲み会が始まった。彼らに、「大丈夫か?」と尋ねても、誰もが「マイペンライ!いずれ終わる」の一言。ノンビリというか大陸的というか・・・。

 プーケット日本人会を結成したのは1990年だった。最初はプーケット日本人同好会っていう名で、レストラン「富士(プーケットの日本人経営の日本食料理屋の草分け的な存在だった)」で旗上げした。いったい、何人集まることやら、と思っていたけど、16人集まったので驚いた。店内が日本人で一杯になっちゃった。ちょうど、日本の旅行会社が数社、プーケットに入ってきた頃だったし、日本人同士、横の繋がりは、ほとんどなかったから、どこで、誰が、何をしているのか、さっぱりわからない。情報交換の場の必要性をみんな感じていた。そして、持ち回りで、親睦会を各地で開いていくうちに、それぞれが知り合いに声をかけるなどして、少しずつメンバーが増えていった。

この時のメンバーで残っているのは品川さん(旅行業)一人になっちゃったな。当時の活動の一つに、邦人保護の手伝いがあった。事故や事件が起きると、大使館の邦人保護担当者から連絡が入って、病院や警察に行き確認作業をやることになる。死体の安置所にもよく顔を出したけど、やっぱり、いやだったなあ。行きたくないんだけど、大使館から電話がくると断れないよね。でも、そういった活動がその後実現することになった領事部の出張サービスに繋がっていくんだ。 結成当時の日本人会の目標は領事館の誘致、日本人補習授業校の開校が2枚看板だった。1997年には簡単な情報交換誌を発行したが、それが後に「会報誌パカラン」に成長していくことになる。


日本人の数は急激に増えていった。それに伴って子供も急増、これは早く補習校をつくらないと大変なことになると思ったよ。みんな、どんどん大きくなっていったしね。長男の慎太郎が小学校に上がったとき、子供の教育環境を考えてラワイビーチからタウンの郊外に引越した。ラワイは、古い漁村の雰囲気があって気に入っていたけど、その頃は幼稚園に通わせるのも大変で、まだ真っ暗なうちに乗り合いの送迎用改造トラックで2時間もかけて通園させていたんだ。途中で寝てしまうこともしばしばあったようで、下の子供2人の事を思うといくらなんでも可愛そうだったから決心したね。


次男の仁司は、オレの名前から「司」を、そして早く亡くなった親父の「仁」をもらって付けたんだけど、お袋はすごく喜んでくれて、「ありがとう」って言ってくれたよ。娘の真里奈は、伸び伸び大きく育ってもらいたいという願いを込めて、英語のマリンから付けたたんだ。子供たちも今では日本へ、ドイツへ、バンコックへとそれぞれの道を歩み始めている。
 
補習校の設立を国に申請しようと大使館に相談したところ、まず補習準備校を開校しなければならない事がことがわかった。プーケットがどんどんメジャーになっていく中で、日本から移り住んでくる日本人の数も増える一方だったから、時間との競争だった。 子どものいる主だった家庭に声をかけ、お母さん方の協力を得て補習準備校がスタートしたのは1997年だったと思う。
 
教室探しには苦労したな。設立資金があるわけではなく、悩んでいた時に、お付き合いがあったA&A社の3階が空いている事を知り、さっそく日本に飛んで社長さんに直談判した。「うちはタイの社会にお世話になっている」とよく口にしていた社長さんから、「とりあえず家賃はいいから、うちの事務所の上でスタートしたらどうだい?」と温かい支援の言葉を頂くことができ、机や椅子はバンコックの泰国日本人会から無料で払い下げてもらって、先生は保護者がボランティアで担当した。本当に何から何まで手作りのスタートだったなあ。

チェンマイ補習校の視察にも行ったけど、あの頃は古民家を借りてやっていたね。でも、運営委員長は、日本の大手企業の社長さんだったし、プーケットとチェンマイでは、資金力の面で、あまりに差が大きいので、びっくりしたのを今でも思い出すよ。補習準備校は一時様々な理由から活動を休止することになったけど、1999年9月に補習校は再スタートを切って、翌2000年2月に文部省(文科省)より正式に認可が下り、国からの補助金が受けられるようになった。


当時の運営委員長、森田さんが頑張ってくれたね。彼がいてくれたおかげでしっかりした組織が出来上がり、ずいぶん助かった。開校にこぎつけたときは感無量だった。プーケットに補習授業校をつくるのが日本人会の目的の一つでもあったし、それが達成されたわけだからね。創立の式典をやっていたら、その場でPTAの会長に指名されちゃって断りきれず、その翌年には校長先生にされちゃった。保護者会に呼ばれて座っていたら、「宮下さん、是非、お願いします」って言われて、いきなりだったなあ・・・。オレは教育者でもないのにねえ・・・。ちょうどJCC(盤谷日本人商工会議所)の役員の方たちが初めてプーケットを訪れたのも、この頃だった。仲間内で楽しくやっていた日本人会だったけど、これからは対外的なお付き合いもあるから、体制を整えなくちゃって、思ったね。

プーケット日本人の会長は、俺が初代の会長を務め、その後、A&Aの吉野さん、中村さん、杉田さんと続いてから、また俺が再任されることになった。年末の忘年会も、50人、100人、150人、200人と、どんどん参加者が増えていった。当時は、日本人だとわかると、周りのタイ人から「ホンダ!カワサキ!ソニー!」等と連呼され、ちょっと恥ずかしかったから、日本の伝統文化をプーケットの人達に少しでも知ってもらおうと、2004年2月、第一回日本人祭りをタウンのランワナミンで開催した。竹で簡単なやぐらを組み、提灯はJCCから借りて、祭りの雰囲気を盛り上げ、メインは盆踊りと補習校の子供達が演じるロック・ソーラン節だったかな。金魚すくいや焼きそばのお店も出した。タイ人の女の子相手に浴衣の着付けと記念撮影をやっていたら、そのまま着て行かれてたりして大変だったけど、手作りの祭りとしては予想をはるかに超える反響だったと思う。


カタ・ダイビングも、日本人会も、補習校も順調に伸びて、子どもたちもすくすく育ち、まさに順風万帆だったんだけど、そんなときだったなあ、インド洋大津波が来たのは・・・・。
 
次回、「プーケットに大津波がきた!」編、こうご期待ください!  





く 第2部プーケット草
創期編>
「俺がやらなきゃダメだ!」事故を目の当たりにし使命感でダイブショップをオープン。 

 「プーケットは、(島内の)南の方が手付かずの自然が多く、素晴らしい」と教えられていたから、カタに行くことにしたんだ。パトンは物価が高そうだったからね。あの頃、カタの安宿は一泊50B~80Bが普通だったけど、カタ・ゲストハウス・バンガロー(カタ・ダイビング所在地のカタ・ガーデン・リゾートは当時こう呼ばれていた)は100B,俺にとっては高かった。

今でもオーナーのノップ(仮名)は、「俺のバンガローに来て、『高い、まけろ』と言ったのは、お前ぐらいだ」と笑い話にしている。でも、夫婦で片言の英語を使ってヨーロピアンと渡り合っているノップたちの姿を見て、感じるものがあったのは間違いない。彼とは意気投合するところがあって、夜な夜な一緒に遊びに行くようになり、いろんな仲間を紹介してもらって、それが俺の財産になっている。今では大金持ちになっちゃったけどね。 

当時のプーケットはリゾートとは言い難かったなあ。ヒッピーの溜り場のような雰囲気もあった。でも、彼らがその後の「道」を創ったのは間違いないよ。彼らのおかげで、情報が口コミで広がり、様々なガイド本もできていったわけだからね。カタより南は、まるでヌーディスト・ビーチで、若者はすっぽんぽん、海パンはいてる方が不思議な感じだった。銭湯にパンツはいて入る人はいないでしょ。そんな感じだった。 

あの当時、すでに日本人の女性が4人暮らしていた。そのうちの一人は、日本に錫(一昔前のプーケットは錫の採掘が陸・海共に盛んだった)の勉強で留学していたタイ人男性と知り合い結婚し、プーケットに移り住んだそうで、昔のプーケットの話を聞いたことがあるけど、現在からは想像もつかない生活だったみたいだね。人々は素朴で、産業はゴム、錫、ココナッツに水稲、あとは漁業。ビーチには漁師が住んでいて、それぞれの浜からロングテールの船を出して、わずかな収入を得ていたという。子供達にとって海亀の採卵は貴重なお小遣い稼ぎの手段だった。海亀の卵は中国系タイ人にとっては大切な滋養強壮源だからね。 

古くから住んでいた男性では、プーケットでホテルと日本食レストランをオープンした大林さん(仮名)も忘れられない。ご存命なら90歳を超えていられると思うけど、出会った時の印象は、お年は召されていたが、りっぱな体つきで、開襟シャツからのぞく厚い胸板には、りっぱなタイの入れ墨が彫られていたのを思い出す。なんでも日本兵としてタイに渡り、終戦後もバンコクに留まり財を成し、「残りの人生、自然があるプーケットで余生を送るんだ」とやってきたらしい(当時のバンコクは中古車の排気ガスでひどいものだった)。 

あの頃の思い出の中で強烈だったのは、タンタル工場爆破事件。後にも先にもプーケットで戒厳令が発令されたのはあの時だけだったから。政府が宇宙船等に利用できるタンタルの工場をプーケット市内で極秘に建設中、それを聞きつけた学者や学生たちが公害や環境破壊の可能性を指摘したから大問題になっちゃった。公聴会を開くため慌ててバンコクから飛んできた担当大臣が報道陣の前でサラシン像に花輪をかけようしたその瞬間、地元の中年女性がすっと近づき、いきなりの張り手打ち。これで大臣も市内に入れず予定していた公聴会も中止になって、収まりのつかない住民が工場を爆破してしまったんだ。今でも残骸が残っているんじゃないかなあ。あの時は改めて、タイは「熱い国」だと思ったし、この事件はプーケットが観光立県に進んで行くターニングポイントになったと思う。

お金が無くなれば帰国するしかないんだけど、まだこの時はプーケットに住もうという決心はつかなかった。でも、日本に帰って半年位した頃だったかなあ・・・、人ずてにノップが「いつ戻ってくるんだ」と訊いてくれて、俺もプーケットが忘れられなかったから、「小銭ためたらすぐ行くよ」と返事をしたよ。とりあえず数年間はノップのお手伝いをしながら居候。スノーケリングの貸し出しを3点セット(マスク、フィン、スノーケル)30B~で始めた。

15バーツでチャーハンが食えた時代だったから、1セット出ると、「今日はこれで飯が食える」と思ったもんだよ。小銭がたまるとファンダイブによく行った。ラジャ島2ダイブが7~800Bくらいだったかな。 嫁さんと知り合ったのも、その頃だった。彼女はまだ学生で、研修生としてカタ・ゲストハウス・バンガローのフロントで働いていた。

第一印象?うーん・・・タイ人特有の笑顔に惹かれたのかなあ・・・。研修期間だから、彼女は本当に一生懸命やっていたし、人って、そういう時に人間本来の姿が出るでしょ。そこも気に入ったんだと思う。 一緒に暮らし始めたものの、その日暮らし。でも子供ができちゃって、「さあ、どうしよう」となった時に、彼女に「あなたに任せるわ」って言われ、そう言われちゃうと「男として何とかしなきゃ」って普通は思うでしょ?今にして思うと、そこでスイッチが入ったね。籍は入れたけど、式も挙げられなかったし、指輪も買えなかった。彼女に申し訳なかったかな、とちょっと反省してる。 

 
 ダイブ・ショップを始めたのは89年だった。きっかけは、ちょうど前年に連続して日本人がダイビング中に亡くなり、どうして事故が起こったんだろうと調べたのが動機だった。ボート上でのガイド・ダイバーとの意思の疎通が問題だったし、ブリーフィングをしっかりと理解せずに潜行したのが原因だったようだね。「これは、(日本人である)俺がやらなきゃだめだ」と思い、使命感みたいなものを感じたよ。海の凄さや楽しさを知りはじめた時だったたし、ダイビングのお客さんにホテルで泊まってもらえれば、ノップにも多少の恩返しが出来ると思ったしね。

不思議なもので日本人のインストラクターを探していたらタイ人の仲間が連れてきてくれたり、居候していた空白の数年間にできた人脈が大きかったと思う。仕事抜きで付き合っていたからこそ、肝心なときには助けてくれる。人生って不思議なもんだね。 今までは、自分のことだけ考えていればよかったけど、これからはそうはいかない。日本に行き、まず本屋で旅行雑誌を買って、手当たり次第に旅行会社で飛び込み営業をやった。白い紙にワープロでプリントして、写真を貼った手作りのチラシを持っていくの。「プーケットって、潜れるとこあるの?」なんて聞かれたりして、まだまだ、そんなイメージだったんだね。  

当時のカタビーチは凄かったよ。無条件できれいだった。マングローブが群生し、ニッパ椰子の根元にはエビや稚魚が群れをなしており、汐が引けばシオマネキのすごい群れ、夜ライトを当てれば無数に光る小エビの赤い目がキラキラと輝いているんだ。今は残念だけど見られなくなったなあ(本当に残念そうな顔をしながら、しみじみと・・・)。

マングローブも護岸工事でほとんど無くなり、環境破壊がどんどん進んでいるのを実感してしまう。以前は夕方になると、プーケットの周りでイルカがピョンピョン飛び跳ねていたんだ。今は、イルカが集まってくるほど魚がいないんだろうね。メルディアン・ホテルがあるところも、カタ村の一部で手付かずのまま自然が残っていた。「こんな綺麗なホテルができて、良かったね」なんて言う旅行者もいるけど、地元の人は、「本当に何が良かったの?」って思ってる人もいるんじゃないかな。 

プーケットでダイビングの機材を揃えるのは大変だった。輸入品に対し高い税金を支払わねばならず、バスに乗ってシンガポールまで買いに行くしかなかったんだ。戻るとき、ハジャイ行きのバスに飛び乗ったら、全員ギラギラした中年のおじさんグループ・・・、なんてこともあったなあ。 あの頃のプーケットには、フィンやマスクですら、満足のいくものは無かったんだ。 

ちょうど、その前後だったかな。「彼女が水着に着がえたら(原田知世主演)」という映画がヒットして、「海」や「ダイビング」に対する憧れのようなものが若者たちの間に広がっていった。時を同じくして、TAT(タイ王国政府観光庁)が「サムローに乗って、タイは若いうちに行け!」というキャンペーンを日本で始めたんだ。当時、観光の中心はバンコクで、しかも、「夜の街」というイメージが強かったせいか、中年男性以外は、あまりタイに興味を示す人は少なかったけど、このコマーシャルで一気にブレークし、プーケットに行く若い女性観光客が激増した。長男の慎太郎も生まれ(幕末の雄・中岡慎太郎から命名)、プーケットの観光産業が右肩上がりの中、時代が俺の後ろから付いてくるような気がした。(以下、続編へ。第3部は「プーケットに日本人会を作るぞ!」の予定です。ご期待ください


<第1部「世界放浪」編>

プーケットにちょっと詳しい人なら、日本人会の会長を長年勤められた宮下さんのことを知っている方も多いと思いますが、カタ・ダイビング社長としての宮下さんは、住んで暮らしている人にも、意外と馴染みがないような気がします。今回は新年特別企画として、人間・宮下和司さんにスポットを当ててみました。

「あれは33年前・・・」若干27歳の宮下青年は、プーケットに初上陸した。

25歳のときだったかなあ・・・、思うところあって世界を目指して放浪の旅に出たんだ。まず、横浜から船に乗って旧ソビエト(現ロシア)のナホトカ(極東の軍事拠点ウラジオストックに近い港湾都市)へ。そこから国際列車でハバロフスクに向かい、そこで飛行機に乗り換えるグループと、そのまま列車でモスクワを目指すグループに分かれたけど、俺は貧乏だったから列車グループだった。モスクワまで1週間かかったよ。列車内の食事が余りにも酷かったので、途中駅で食料を調達。最終目的地は南米だったけど、当時は、シベリア鉄道が一番安く欧米に出る方法がだったんだな。

バイカル湖を越えるのに丸1日近くかかったのには驚いた。あまりの大きさに海辺を走っているのかと思ったよ。6月下旬だったけど、日没が遅く、夜10時になっても太陽が沈まなかった。「もっと北上すれば夏場は白夜だろうか」、なんて想いながら大陸の大きさ、景色に感じいった。中に北朝鮮の高官制服組らしき人たちも乗っていて、お国自慢を聞かせてもらったけど、オレ自身のイメージとはかけ離れた感覚だった。今思えば日本人拉致事件が頻発してた頃だったから、複雑な心境になってしまう。

あの頃はインター・ネットはなく、ラジオの国際短波放送で情報を得ていたような時代だった。高校生の頃は、「卒業したら、すぐ海外移住だ!」、なんて考えた事があったけど、あまりの無謀さが母親にバレて、こっぴどく怒られた。当時は海外の情報は殆どアメリカからで、アメリカの対ベトナム戦争など何か違和感を感じていたんだ。「百聞は一見にしかず」と言うけど、大きな未知の世界を自分の目で確かめたかった。

旅は110ドルが基本。「地球の歩き方」は今とは全然内容が違っていたけど、持って歩いてると情報源が同じだから、どこに行っても日本人の貧乏旅行者に出会うことになる。全部で30カ国くらい回ったんじゃないかな。

当時は、お金はないけど探究心が旺盛で、体力だけは自信があった。学生用のユーレイルパス(西ヨーロッパ全ての国がフリーパスになる鉄道周遊券。1週間から数ヶ月まで各種有り)を利用して寝台列車をホテル代わりに国から国の移動に利用していた。

ところが、エジプトでウイルス性の肝炎に感染し、スイスでトレッキング中に発病、かなりの体調不良だったけど、やっとの思いでフランスのパリにたどり着いたものの、病院には行かず、「先ずは芸術の都だから、ルーブル美術館だ!」と向かってしまい、ソファーに座って暫く休んで立とうとしたら、体が重くて1人では歩くこともできず、とうとう入院するはめに。

病院ではフランス語でチンプンカンプン(でもナースはフランス人形を見るようだった!)、困っていたら日本大使館の職員さんが来て助けてくれた。
「この後どうするつもりです?」って聞かれ、「治ったら、またすぐ旅に出ます」って答えたら、「肝炎でも重症だから、回復に時間がかかるので、ここでアパートを借りて数ヶ月静養が必要ですよ」と言われ、お金もないし、仕方ないから日本に戻って、そのまま病院に直行、3ヶ月も入院するはめになっちゃった。毎日水代わりにワインを飲んでいたのがまずかったのかもしれないけど、まさか肝臓がやられてるなんて考えもしなかったよ。

旅が中途半端に終わってしまったので、また行きたいという思いは募るばかりだった。でも、金がないから、とりあえず働かないとね。いろんな仕事をやったなあ。T自動車の自動車組み立て工場でも働いたよ。当時の工場は目的意識を持って働いている人は、ほとんどいなかったから、みんなに、「お金貯めて、海外に」なんて言ってる俺は、不思議な目で見られていた。

仕事は人間ロボットそのもの。機械的に同じ作業を延々と繰り返すんだ。人手が不足してくると十数時間労働になったけど、人間の集中力には限界がある。睡魔が襲ってくると貼るべきステッカーを貼らなかったりして、頭がおかしくなってくる。まるでチャップリンの映画の世界と同じだったよ。

某デパートのメガネ売り場でも働いた。なぜか成績がよくて、売り上げベスト3に入っていたから、辞めるときは、ずいぶん引き止められた。今思うと、18/金縁フレーム(山の手の奥様が買っていく),べっ甲フレームなんか、よく売ってたって感心するよ。

付き合っていた女の子もいたけど、こんな性格では一生結婚は無理だなと思っていたし、高校から大学へ、卒業後は就職、そして結婚・・・・そういう人生計画は俺の頭の中には全くなく、「世界には、もっと自由で凄い可能性があるんじゃないか」なんて勝手に思い込んでいたね。

2年間日本で働いた後、また懲りずに旅に出た。今度は飛行機で南回りだった。もう、列車の旅で1週間もかけてられないと思ったもの。スペインで言葉を覚え、それから南米に飛ぶ計画だったんだ。マドリードには1年近くいたけど、スペイン料理とスペイン娘との出会いを求める為の言葉は覚えたけど、俺のは、なんか変なスペイン語だったな。今のタイ語も似たり寄ったりかもしれないけど・・。

スペイン人の友人に「クリスマス迄にはマドリッドに戻るから」と伝え、船でジブラルダル海峡を渡って、そこからバスに乗ってモロッコにも行った。当時のモロッコは刺激的だった。(注、不穏当発言多数のため一部削除します。何が刺激的だったのかは、本人から聞いてください)
銃撃戦に巻き込まれ、死ぬかと思ったこともあった。薄暗い早朝をバス亭に向かって歩いていたら、バイクに乗った若い男が近づいて来て、「ただで送ってやる」ってしつこく手を引っ張るんだ。「すぐそこだから」と断ると急発進して走り去ったけど、その直後、乗用車が後方から近づいてきて、一瞬の静寂の後、パンパンパーンって激しい音がして、もう無茶苦茶だった。街中で拳銃を撃ってるのを目撃したのは初めてだったなあ。東洋人を乗せていれば、人質に出来るとでも思ったのか、それとも弾よけに使うつもりだったのか。もし、あの時バイクに同乗していたらと思うとゾッとする。何かの抗争事件かな、とも思ったけど、実はこの乗用車は覆面パトカーだったみたいだね。怖い目にあったけど、いろんな出会いがあって楽しかった。モロッコの新鮮なミントに熱いお湯を入れたミントティー、あの香りは忘れられない。   

「どうして、そんな危険な所に行くんだ」って、よく言われたよ。確かに隙あらばと近寄ってくる奴はいるけど、経験則で馴れてくれば、それなりに対処できるようになる。「あの街は危ないゾ、気をつけろ」、そういわれると逆に興味がわいてくる。そういう場所って歴史や、そこでしか体験できない風俗・風習があって、いろんな地元の人にも出会えて面白いんだな。

当時のオレは欧米にばかり目がいっていて、アジアはまるで眼中になかったが、ひょんなことから、足を踏み入れることになっちゃった。南回りの飛行機だったから、いったん、バンコクまで戻って、そこから南下し、憧れの南米に渡ろうと思ったの。

バンコクでは、有名な楽宮旅社に泊まった。牢獄のような構造だったんで、火事になったら出てこれないと思い、一泊だけして、次の日、マレーシア・ホテル(これも有名。バック・パッカーの聖地)に移ったけど、そこで知り合ったヨーロピアンの若者から、「プーケットは、ヘブン(天国)のようだ」と吹き込まれ、行きたくなってしまったんだ(!)。エアコンなしで、扇風機がぶんぶん回るバスに乗ってプーケットに初めてやって来たのが、33年前・・・、確か、オレが27歳のときだったんじゃないかなあ・・・。

(以下、続編へ)

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1台のタクシーが60数台に!
「ジョー・トランス」代表・牧裕子さんインタビュー

1993年の春にプーケットに来ました。最初は「アメリカに行きたい」と思っていましたが、ジャパンタイムスに載っていたダイヤモンド・クリフのゲスト・リレーション募集広告を見て、「2年なら、プーケットに行こう」と思いました。修行のつもりだったので、特にプーケットに憧れていたわけではありません。2年間の予定が10数年になってしまいました。

主人も同じホテルのスタッフで、そのとき知り合いました。GMがたいへん厳しい人で、朝の6時から夜中の12時まで働いた日もあります。

その後、ラグナ・ビーチ・リゾートに1年、バンヤン・ツリーにも1年いましたが、子どもができたので退職し、結婚しました。子どもを育てるために、何かしないといけないと思い起業しました。

最初は車を1台買って、それでタクシー業を始めました。ホテルの前でお客さんを待っている、あのスタイルです。主人が1人でやっていましたが、2台、3台と車が増えていったのでオフィスを構えるようになりました。

タクシーの商売がうまくいくようになったとき、車のレンタル業を始めました。やはり、まず1台買って、それがどんどん増えていき、お客さんも付いて、大きな会社が年単位で借りてくれるようになりました。
現在60台保有していますが、この数がちょうどいいバランスだと思っています。これ以上増やすと、お客さんは増えるかもしれませんが、他の部分で不都合が出てきてしまうような気がします。自分の実力の許容範囲がこの数字で、バランスを崩すと奈落の底ですね。

奈落の底?

はい。回していくだけで精一杯なんですが、いったんストップしたら奈落の底ですから、落ちないように走り続けるしかないんです。

最近はレンタル業の方が好調で、タクシー業はガソリン代が高く、あまり儲からなくなりましたが、捨てることができません。最初に始めた「本業」ですから残しておきたいんです。

ボートのチャーターもやっています。以前は3隻所有していましたが、メンテナンスが大変で、ガソリン代も高いですから、今は他から借りて、それをリースに出しています。
ボートを盗まれたこともあります。港に泊めておいたら、持っていかれ、何日かしてバラバラになって見つかりました。保険が利かず、盗られ損です。

車も泥棒されたことがあります。知り合いの警察に捜してもらったら、バンコクの近辺で見つかりました。この商売をやっていると、警察とは仲良くしておかないといけませんね。警察やイミグレ対策は主人の担当です。
タイの警察は優秀ですよ。普段は、やる気なさそうに見えますが、やる気になったら、ムチャクチャ優秀です。警察のネットワークは凄いと感じます。「この犯罪なら、この犯人、このグループ」とだいたい目星はついているようですね。

なんとなく、やってきたような感じですから、特に商売のコツとかはありませんが、強いて言えば、常に新しい車を揃えるように心がけています。需要の少ないローシーズンに古い車を処分して、ハイシーズンの前に新しい車を買っていきます。

ビジネスで辛かったことですか?回すだけで精一杯でしたから常に辛かったです。けれどもっとつらかったの子育て。ビジネスと違って、子育ては24時間で、しかもエンドレス。出口も見つかりませんし、自分の時間がほとんど持てませんから、楽しめませんでした。精神的に余裕がなかったですね。子育てを楽しめる人は相当人間ができていると思います。私なんか、子育て本を読むだけで落ち込みますから・・・。

でも、一番下の子が小学校に上がったので、最近ようやく時間ができて、楽しめるようになりました。今、ヨガをやっていますが、そのときだけ、「自分のためにやっているだ」と感じることができます。
子育ての秘訣は、あまり物事の是非に囚われず、ありのままの自分と現実を受け入れる事かなぁ。そして、どんなに忙しくても自分の為だけの時間を少しでも持つことかなぁ、と感じています。

長男は、サッカー推薦で中学に入りました。13歳ですが身長はもう173cmあり、ゴール・キーパーをやっています。本当は学業の方でもっともっと頑張ってもらいたいです。

4児の母親にして、ビジネス・ウーマンである牧さんに、両立の秘訣を尋ねると・・・。

両立の秘訣?よくわかりませんが、自然に流される事なく、逆らうことなく上手く乗ることかなぁ。子どもたちも計画的に作ったわけではなく、自然に生まれていきました。
そして、子どもが増えるに従って、ビジネスも大きくなっていきました。子どもが生まれるたびに、車が増え、子どもが生まれるたびに、土地が買え、子どもが生まれるたびに、家を買うこともできました。
「子どもたちがくれたビジネス」、本当にそう思います。
店舗に隣接した自宅と駐車場。
 
 
 

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